2013年10月26日

インプットすれば、アウトプットが出るか

調べものに関する話。
司馬遼太郎は本の鬼で、書く題材に関する本なら、
なんでもかんでも神保町の棚を端から買って、
全部読んだのだそうだ。
ネットが発達した現在、簡単なことならネットで何でも分かるようになったが、
それで取材とするには足りないと思う。
「それに関することで、知らないことはない」とするのが、
ものを書く前の取材の基本である。
そのジャンルの権威になれ、とよく言われる。

さて、それだけインプットしたとして、
アウトプットとの関係について考えてみよう。



何故それだけの調べものをするかには、
いくつかの理由がある。

先行するものに、今から書こうとするものと、
全く同じようなものがないかを調べるのがひとつ。

大体人間の考えることは似たようなものだ。
凄いアイデア、凄いテーマ、凄いキャラクターを思いついても、
似たようなものが過去にあったら負けだ。
既にそこは掘られていたのだ。
それどころか、自分よりよく考えられていたりよく出来ていたりすると、
結構へこむ。
烈海王的に言えば、「その地点は四千年前に中国拳法が通過したッ」である。

その良くできたものを越えるのか、別の所へ行くかは決める必要がある。

また、似たような着想ではあるが、
イマイチだったものは、分析に値する。
一見素晴らしく思えたものが機能しなかった理由が分かれば、
同じ失敗の愚を避けることができる。
こうすれば立て直せたのではないか、と考えることが、
自分の窮地を救うことになるだろう。


その世界の常識に身を浸すことがひとつ。

例えば東京の人が関西について書きたいとき、
関西人の知り合いを一人も持たないなんてあり得ないだろう。
複数の関西人と話し、関西人共通の何かを知らなくてはならない。
刑事物を書くのに、映画やマンガを参考にするのは論外だ。
一次資料にあたるのが原則である。
二次資料、三次資料は、他人のバイアスがかかった嘘だ。
真実ではない。
上等な嘘つきは、真実を知った上で嘘をつく。

その世界での自然な発想や、周知の事実や常識、
あることを投げ込んだ時に起こりうる当然の反応、
そのようなものを自分の中に発想として持てるようにならないと、
物語を書けない。
各登場人物がどう考え、何を言い、どう行動するかを、
自然に書けなければならない。
また、それに初めて触れたときの、あなたの感想や感動は重要だ。
その時の気持ちが、そのジャンルを知らない観客がそこに触れたとき思う、
ファーストインプレッションに近いからだ。

あなたは、その世界のレポーターであり、
同時にその世界の熟練者としての発想を身につけなければいけない。


そして、資料にあたる前半戦ではそうだろうが、
後半戦でもそのままではいけない。
後半戦は、あなたが書こうと思うものが、形になりかかっている時だ。
だから、あなたの興味の方向に、深く調べものをしていく必要がある。

そこからが調べものの、ようやく本番だ。
あなたは何かを書く前提での、
既にあるその世界のリアリティーや、
行動原理や、予備知識を調べ始める。
これを知っておくには、これを知っておくべき、
という判断も出来るようになる。
ここは書く話には必要ない、という判断や、もしかしたら必要かも、
の線引きも、出来るようになってゆく。
プロットが形になりはじめたり、
キャラクターがその世界のリアリティーを持って話し始めたりする。

こうなったら資料のページを全部閉じて、
あなたの書く物語の世界に想像を膨らませるのがよい。
ある箇所にまだ調べものが必要だと感じたら、
また資料に戻る。

資料探しを他人に任せる人を、僕は基本的に信用しない。
それは単なる使えるネタ探しでしかないからだ。
右から左に、珍しい使えるネタを輸入して、
ただ並べるだけだからだ。
そこには何ら作家性はない。
ネタは点であり、線や面や立体をなさない。
それは、アウトプットとしては貧弱だ。
膨大なインプットは、その一点以外はいらなかったことになる。


ある考えのもとに資料の森にわけいり、
獲物をある考えのもとに調理されたものには、
作家性がある。
その独自の考え方が、よかれあしかれ、作家性となる。
その資料に作家自体も影響され、
当初の考えはより深く窯変してゆくだろう。

資料を、自分の考えで整理して行く。
その堀り方自体が、あなたの作家性だ。
そのようなインプットだけが、面白いアウトプットを生む。

ただ乱読して全体像を知る前半戦、
ある考え方をもとに掘って行く後半戦。
それらのインプットが揃って、ようやくいいアウトプットの条件になる。



今書いているのは、天狗をネタのひとつにしている。
何故天狗は鼻が高いのか、というほぼ初手のフツーの疑問が、
天狗道という六道輪廻の外にたどり着き、
第六天魔王の意味にたどり着き、
仏教の輸入や神仏習合や、明治政府の神仏分離令や、新橋の愛宕神社や、
崇徳上皇の怨霊(「雨月物語」)は平将門(「帝都物語」)より凄いらしいと聞き、
スケバン刑事風間三姉妹の呪法は修験道であったかと気づいたり、
孔雀王が面白かったのは何でだろうと考えたり、
八大天狗のうちみっつが忍びと関係してることに気づいたり
(ちなみに風魔は天狗相模坊の支配地にいた)、
小学生の夏休みに行った祖母の実家近くの金比羅山や、
中学の林間学校で登った大山や、大学でゼミ旅行でいった吉野や、
当時の彼女と行った鞍馬山や比叡山や、
別のシナリオのネタに持っている山形の蔵王にまでたどり着いた。
その全てが作品には生きないが、
この調べものは、明らかに僕の物語に血肉を与え、
自分の経験と照らし合わされている。
これらの知識は、調べれば誰にでも分かる知識でしかない。
これを、ある考えのもとに再編成するのだ。
実現するかどうかは、また別の話だけど。
posted by おおおかとしひこ at 16:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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