素晴らしいアイデアを思いついたとしよう。
とにかくメモだ。
殴り書きでもなんでもいい。
言葉じゃなくてもいい。絵や図形をかいてもいい。
概念同士の結びつきは英語のほうが早いかもだ。
あるいは技術用語やローカルな言葉のほうが早いかもしれない。
落ち着いてあとで考えるとき、
それが優れたアイデアかどうか判別する方法がある。
それは、日本語で書けるかどうか、ということだ。
アイデアとは、他人に共有されてはじめて価値を放つ。
分かりにくいものや複雑なものは、
少なくとも物語のジャンルでは、よいアイデアではない。
数学の証明や相対性理論などは、専門家にとっては素晴らしいアイデアだろうが、
こと映画にとっては、全く素晴らしくない。
アイデアは、日本語で書ける。
何故なら、映画が、絵と音で情報を伝えるメディアだからだ。
セリフや動作やイコンで、中身を伝えるメディアだからだ。
これらは全て、脚本に日本語で書かれるからだ。
詳しい裏設定は、アイデアではない。
脚本に書かれていない。
(世界の整合性を保つために重要かも知れないが、
それは背景であり前景ではない)
ビジュアル上や映像テクニックのアイデアは、
脚本に書けないのなら、それはアイデアではない。
何故なら、アイデアとは、共有される新しい考え方のことだからだ。
とりあえずスタッフやキャストに共有されなければ、
表現すら出来ない。
それが具現化しても、見る人の中に共有されなければ、
アイデアが伝わったことにならない。
映画においては、日本語で書けるものだけがアイデアだ。
うんこを頭に乗せるビジュアル、と書けるのはアイデアだが、
その絵はアイデアではない。
ああ、うんこを頭に乗せるんだ、と「理解」することがアイデアだ。
一端理解されれば、人には知性があるから、
それを応用することが出来る。
そのアイデアを中心に、色々な要素を整えることが出来る。
そのアイデアから、展開させることが出来る。
あなたはアイデアを思いつく必要がある。
このお話のアイデアを書いて下さい、
と言われたとき、それを日本語で書いてみよう。
いざ言葉にしてみるとたいしたことないのなら、
それはたいしたアイデアではない。
些末なアイデアなのか、中心に来る根本的なアイデアなのかも、
言葉になっていれば分かる。
言葉は、それほど強力だ。
何故なら、我々は、世界を言葉で理解するからだ。
世界を体で理解する方法もある。
それは、実は映画では表現出来ない。
身体的な一部の感覚は可能だ(例えばダニーボイルの「128時間」のクライマックス)
が、全体の理解は、映像表現では難しい。
「2001年宇宙の旅」はその典型だ。
モノリスによる人類の進化を描いた話だが、
猿が道具を使ったり、AIが自我に目覚めたり、
船長がスターチャイルドという第三の進化形態になったことを、
進化という軸で「理解」出来る人は希である。
逆に、このように言葉で書けばわかる。
体験の理解には、映像と音だけでは不足なのかも知れない。
操作と結果の連鎖のあるゲームなら、ある種の体験的理解があるかも知れない。
だが、その体験の理解を他人に伝えるには、
やはり言葉を必要とすることに変わりはない。
日本語で、アイデアを書き下してみよう。
それが面白そうなら、そのアイデアには価値がある。
それだけで面白くなさそうなら、面白い短い文章になるように、
練ってみるとよい。
それが面白くなるなら、そのアイデアはいいアイデアだ。
2013年10月27日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック