2013年10月27日

アイデアは、日本語の形をしている

素晴らしいアイデアを思いついたとしよう。
とにかくメモだ。
殴り書きでもなんでもいい。
言葉じゃなくてもいい。絵や図形をかいてもいい。
概念同士の結びつきは英語のほうが早いかもだ。
あるいは技術用語やローカルな言葉のほうが早いかもしれない。

落ち着いてあとで考えるとき、
それが優れたアイデアかどうか判別する方法がある。

それは、日本語で書けるかどうか、ということだ。

アイデアとは、他人に共有されてはじめて価値を放つ。

分かりにくいものや複雑なものは、
少なくとも物語のジャンルでは、よいアイデアではない。
数学の証明や相対性理論などは、専門家にとっては素晴らしいアイデアだろうが、
こと映画にとっては、全く素晴らしくない。

アイデアは、日本語で書ける。

何故なら、映画が、絵と音で情報を伝えるメディアだからだ。
セリフや動作やイコンで、中身を伝えるメディアだからだ。
これらは全て、脚本に日本語で書かれるからだ。

詳しい裏設定は、アイデアではない。
脚本に書かれていない。
(世界の整合性を保つために重要かも知れないが、
それは背景であり前景ではない)
ビジュアル上や映像テクニックのアイデアは、
脚本に書けないのなら、それはアイデアではない。

何故なら、アイデアとは、共有される新しい考え方のことだからだ。
とりあえずスタッフやキャストに共有されなければ、
表現すら出来ない。
それが具現化しても、見る人の中に共有されなければ、
アイデアが伝わったことにならない。

映画においては、日本語で書けるものだけがアイデアだ。
うんこを頭に乗せるビジュアル、と書けるのはアイデアだが、
その絵はアイデアではない。
ああ、うんこを頭に乗せるんだ、と「理解」することがアイデアだ。
一端理解されれば、人には知性があるから、
それを応用することが出来る。
そのアイデアを中心に、色々な要素を整えることが出来る。
そのアイデアから、展開させることが出来る。


あなたはアイデアを思いつく必要がある。
このお話のアイデアを書いて下さい、
と言われたとき、それを日本語で書いてみよう。
いざ言葉にしてみるとたいしたことないのなら、
それはたいしたアイデアではない。
些末なアイデアなのか、中心に来る根本的なアイデアなのかも、
言葉になっていれば分かる。
言葉は、それほど強力だ。
何故なら、我々は、世界を言葉で理解するからだ。

世界を体で理解する方法もある。
それは、実は映画では表現出来ない。
身体的な一部の感覚は可能だ(例えばダニーボイルの「128時間」のクライマックス)
が、全体の理解は、映像表現では難しい。

「2001年宇宙の旅」はその典型だ。
モノリスによる人類の進化を描いた話だが、
猿が道具を使ったり、AIが自我に目覚めたり、
船長がスターチャイルドという第三の進化形態になったことを、
進化という軸で「理解」出来る人は希である。
逆に、このように言葉で書けばわかる。
体験の理解には、映像と音だけでは不足なのかも知れない。
操作と結果の連鎖のあるゲームなら、ある種の体験的理解があるかも知れない。
だが、その体験の理解を他人に伝えるには、
やはり言葉を必要とすることに変わりはない。


日本語で、アイデアを書き下してみよう。

それが面白そうなら、そのアイデアには価値がある。
それだけで面白くなさそうなら、面白い短い文章になるように、
練ってみるとよい。
それが面白くなるなら、そのアイデアはいいアイデアだ。
posted by おおおかとしひこ at 14:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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