2013年10月29日

批評は表現者を成長させる

あなたが書き手の初心者だとしたら、
心ない批評に傷ついた経験があるかも知れない。
だが、批評は表現者の肥やしである。

作者が自分でも分かっている欠点を批判されても、
或いは薄々感づいていた欠点を批判されても、
それほど傷つくことはない。
やっぱりばれたか、見る人というのは鋭いなあ、
と感心し、そこまでちゃんと共有されることに喜びすら感じる。

キツイのは、自分では気づいていない、無意識の部分を攻撃されることだ。
偏見や不合理やダサイところ。
無防備状態で、最大の弱点を突かれる。
それが何故起こるかを知っておくと、対処も出来るようになる。


物語とは、意味を紡ぐ行為である。
それがどんな話であれ、そこそこ面白い話なら、
物語は意味の構造を持つ。
作者の意図と合っている場合もあるし、
作者の意図せぬ意味をなしている所もある。

大体、全てを作者が意図的に全てを支配していると考えることが浅はかである。

物語を書くという行為は、一種の霊媒や、物憑きである。
ある種のビジョンやセリフや展開が、ある日突然うかぶ。
それらが形をなすまで、その元素のスープをかき混ぜる。
次第に形になってきたら書き始めるが、その段階で全ては出来ていない。
書きながら、自転車操業のようにスープをかき混ぜ、
多少の計画や構想はあるものの、
ラストまでアドリブで書くのである。

リライト段階でそれを理屈的に整えたり、
練ったりする作業はするものの、
中身の根本は、どこかから湧いて出た、
書けるという直感だ。

それは作者の無意識の部分から出てきたものだ。

その源に、気づいていない偏見、思い込み、間違い、
反社会的メッセージ、ダサさ、頭の悪さ、頭のかたさ、防衛意識
などは、人間なら必ずあるものが、影響する。
それが空気のように作品ににじみ出て、
作品内で欠点になることがある。

それが目立てば欠点にうつるし、
気づかない範囲であれば愛嬌や魅力になるかも知れない。
目に余る場合は作者でも気づくから、自力で修正出来る。
大人の見識で対処すればよい。
厄介なのは無意識で気づかない部分だ。

お気に入りの服を着ていったら、
陰口でダサイと言われてたことを知った気分に近い。


それはすぐに修正したり予防出来るものではない、
と諦めるしかない。
だって無意識だから。
次の時に、その穴に無意識に落ちないように気をつけるしかない。


批評は、それを教えてくれる、有難いものである。
現実世界なら誰も教えてくれず陰口を叩かれることが、
正面切って堂々と言われるのだ。
有難いよこれ。
恥ずかしくなり、傷つくのは人間だから当たり前だ。
しかも無意識の所だから責任が取れない。

問題は、それで次も書くかどうかでしかない。
その失敗についてどう考え、どう次に活かすかでしかない。
多くの人は怖がり、そこへ二度と近づかないようにしてしまう。
成長する者は、もう一度そこへ飛び込み、
獲物をもっと上手く取ろうと企む。
あとは勇気だけだ。失敗の原因は、名も知らぬ誰かが指摘してくれたのだ。


最近の、一回失敗したら追放、みたいな風潮は、
失敗出来ないプレッシャーがキツイ。
だからみんな、意味を構築する勇気を持てなくなっている。
だが、構築することだけが、物語ることだ。
間違ってたら、すいませんと反省して、新作を書けばいいだけなのに、
禁忌のように避けたがる。
みんな無意識を晒すことが怖いのだろう。

しかしそれを晒し、成長する勇気を持つ者だけが、
次の新作を書くことが出来る。


批評は、表現者の肥やしである。
言葉にならない無意識を言葉にする、という肥やしである。
posted by おおおかとしひこ at 15:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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