人は映画を見ているとき、
感情で見るのと理屈で見るのとどちらで見ているか。
感情移入という専門用語を見てもわかる。
感情である。
にも関わらず、第一稿は「論理的に」書いてしまいがちだ。
こういうことが起こる、何故ならこうであり、
こうはならないからだ、それゆえ次の展開はこうであり、
そしてこのプロットの意味するところは、そして最後にテーマとは…
などの「論理の連鎖」を中心に、第一稿は書きがちだ。
矛盾のない物語が出来たという気負いが、
論理的な脚本を書かせてしまうのだと思う。
自分の考えた話がいかに素晴らしいかを「説明」したくて、
論理ベースとも言える脚本を書いてしまうのだろう。
物語の骨格は、プロットという骨格である。
これは論理構造をもつ。
何故こうするのか、その連鎖といってもよい。
それをきちんとつくればつくるほど面白い物語になる。
が、あくまでプロットは骨格だ。
肉体から骨が見えたら気持ち悪いのだ。
肉体が、曲がるべきところが曲がり、
ぐにゃりとせずにピンと立ち、形を整えてさえいれば、
骨は見えるべきでない。
内蔵も見えるべきでない。
見えるべきは皮膚であり、表情である。
皮膚とは、感情のことだ。
映画は感情で見る。
正確に言えば、主人公と他の登場人物の
「気持ちの推移」を見る。
うれしい、かなしい、くやしい、爆笑、号泣、辛い、憎い、
ゆるせない、大変な事になった、行けそうな気がする、
などだ。(あと100個ぐらいは書けるだろう)
複数の登場人物の気持ちは、けして同じではない。
それがコンフリクトだ。
それが最後にひとつになるまでの紆余曲折が物語である。
第一、同一人物のなかでも、アンビバレンツな、複数の感情を持つのは当然である。
感情移入出来るかどうかは別としても、
人はこれを見る。
人物が言ったりしたりすることの、気持ちを察しながら見る。
その人の事情や理由は「理解」したうえで、最も関心が高いのは、
その人の気持ちだ。
感情ベースで、自分の脚本をチェックしてみよう。
それぞれの登場人物が、どのような感情の流れでそこにいるかを、
その人を演じる役者のつもりでチェックしてみよう。
それが通りいっぺんであったり、段取り的だったり、機械的ならば、
その人物は感情を持っていない。
その人物が終始同じ感情でも、同じくその人物は感情を持っていない。
その人の過去を想像しよう。
登場場面で、どんな感情かを決めよう。
「ふつう」「可もなく不可もなく」だとしたらよくない。
その人の感情がないのは、人間としてあり得ないし、
劇に登場する人物としてもあり得ない。
表面から明らかか、秘めているかは別の問題だ。
(欽ちゃんの小便を我慢する男の例のように)
その感情が、場面で起こることやセリフを受けて、
どう影響を受けたり、反発するかを見よう。
それを、全ての主要人物について想像しよう。
別紙にメモは取ってもいいが、第一稿に書き込んではいけない。
頭の中で、それぞれの感情を衝突させ、意に沿わせたり、離反させたり、
服従するふりをさせたりしてみよう。
表面上こうしているが、実はこのように考えている、
という複雑な感情ならそう想像しよう。
(複雑な感情を持てる人物は、映画の中では同時に2.5人までだ)
そもそも、主要登場人物は誰かを、きちんと決めよう。
脇役に複雑な感情はない。あるのは渦の中心の者だ。
それらの感情の結果、話が進行することをイメージしよう。
それが上手くいかないとしたら、
まだあなたの中で、キャラを掴めていないのだ。
その人物の動的設定は何か。
どんなしゃべり方か。何が関心ごとか。
キャラが立つまで、じっくり待とう。
物語を進めるのは、論理ではなく人物である。
事情ではなく感情である。
感情ベースで軌跡を考えよう。
当然、セリフの応酬が出てくるはずだ。
これを自動書記のように記録していく。
だがこれは最終脚本ではない。
自動書記では、感情に片寄り、次に何をするかという論理性が希薄だからだ。
ここでようやく論理が戻ってくる。
感情的であり、論理的であるように、筋を通すイメージをする。
すると、また人物たちは喋り出すだろう。
これらは、まだメモだ。
これを全部隠して、何も見ずに、頭の中の想像だけで、
白紙に書いていくことをオススメする。
何度か難所があるが、感情の途切れ=論理ベースに戻れば、
また感情は勢いを取り戻す。
最後まで書けたら、第一稿と見比べよう。
驚くほど人物がいきいきと動き、
彼らが話を動かしているように見えるだろう。
論理ベースの脚本が、感情ベースの脚本になった。
説明が、生きたセリフになるのである。
第三稿以降では、論理と感情の双方の試行錯誤をする段階だ。
あれを削ったらどうなるか、足したらどうなるか、などである。
また風魔を出すが、キャラの生きの良さの好例である。
論理ベースはありながら、殆どは感情ベースだ。
それは小次郎という主人公にかなりの部分を負っている。
多少ブーストしているものの、本質的には車田先生の創作である。
漫画はキャラが命とはよく言ったものだ。
だが、キャラだけでは物語にならない。
皮だけの骨のないものになる。
論理ベースと感情ベース、脚本は、その双方のベースが同時に存在する。
2013年10月30日
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