イコンというのは、
映画の内容や、核となる独創的アイデアを、
一枚絵のポスターにしたようなものだ。
本来これが映画のポスタービジュアルになるべきだが、
昨今その法則が崩れている。
魅力的なイコンを我々が提供できなくなっているから、
と猛省すべきである。
映画の魅力のひとつは、間違いなく絵である。
シャシンとも言う(シャシンで映画一本を指す場合もある)。
美しい絵、迫力のある絵、情感あふれる絵、愉快な絵、
泣ける絵、切ない絵、とんちの効いた絵、頭の切れる絵。
これらの絵につく「形容詞」は、そのテイストを示す。
表面上のトーンといってもよい。
泣ける映画、コメディ映画、恐怖映画、社会派映画、ロマンス映画、
などは、映画の主な感情を示す。
そのジャンルを見たい人は、その感情を見たくてその映画を見る。
音楽のジャンルにも似ている。
もうひとつの要素は、内容である。
これは何を描いているのか、という点だ。
何を描けば物語を表したことになるか。
コンフリクトあるいはテーマだ。
誰と誰が、どのようなことで対立したり衝突したり確執があったりするのかだ。
それが主人公と敵がただ向かい合っているなら平凡な絵だ。
そうではない、新しいアイデアに基づく絵を構図で提示出来れば、それがイコンになる。
問題のアイデアをイコンで示すことも多い。
テーマと問題は表裏の関係にあるからだ。
コメディなどは、おちいったヘンテコな状況を絵にしやすいだろう。
象徴を使うと絵になる。
「アーティスト」の階段ですれ違うシーンは、
テーマを階段で象徴している。
抽象的な何かを具体的なもので示すのは、映画的な絵作りの真骨頂だ。
擬人化やキャラ化は、象徴の一種である。
とくに日本人の何でも擬人化は、凄まじいものがある。
映画的ドラマは、人と人の間にあるため、
人と人のコンフリクトは人で表現し、
人と何か、などのように、小道具や大道具で象徴をする場合もある。
ジョーズやゴジラなどのモンスターものを、
ベトナム戦争や太平洋戦争の敗北による、
形のない不安の象徴として解釈するのはよくある話だ。
宝物、乗り物、モンスター、洞窟や閉鎖空間、故郷、道、壁、
悪人と邪法(魔法)、権威の象徴、変身(仮面)などは、
代表的な何かの象徴になりやすいものだ。
人類が昔から紡いできた物語に、必ず登場する。
物語とは、これらの表象で語るものでもある。
これらの意味を組み合わせてテーマやコンフリクトを構図におさめ、
それをどんな感情でかくか、が、物語を絵にするということだ。
それらが最近機能しにくいのは、
シンプルで強く、新しい絵を、我々が生み出していないのだ。
何かをちょっとだけアレンジしたり、
既にあるものの組み合わせだったり、
古さの方が新鮮さを上回ってしまう。
そうではなく、
新しい概念、新しい見方、新しいテーマ、
斬新でなくともよい。
アバンギャルドで突出するだけが目的になってしまう。
新しい良さを目指すべきだ。
結局、人は物語を絵で理解し、絵で記憶し、絵で概念化する。
複雑よりシンプルな方が強い。
対比がある方が強い。
ある感情にコーティングされていると強い。
象徴されていると分かりやすくなる。
それがオリジナルであればあるほど、イコンになる。
絵をかいてみよう。
絵心がある必要はない。
イコンになるように、要素を強くしたり弱くしたりしてみよう。
新しいイコンが生まれるということが、新しい良い物語が生まれるということだ。
2013年10月31日
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