迷ったとき、チェックしてみよう。
敵を、コンフリクトの相手としてもよい。
敵の敵は、最初、決して主人公ではないはずだ。
敵には、最初別の敵がいる。
具体的な敵でも、複数の小物でもいい。
最初、主人公は全く目に入っていない小物の筈だ。
それが主人公の何度かの奮闘によって、
敵の目に耳に入り、
芽を摘むべき小物に認識される。
何かの主人公の更なる大事件で、本格的敵と見なされる。
ここでようやく全力を出すのだが、
このときにはじめて主人公の力を知る。
知ったときには、主人公は既に仲間を得て強力な一勢力となっており、
最初気づかない時に捻り潰せた程度の主人公は、
もはや相当の力を割かないと無視できない一派となっている。
あとは全面戦争。
巨大だが鈍重な敵は、主人公の少数精鋭の奇抜な電撃作戦と、
それを支える民衆に追い込まれる。
あとは雌雄を決するだけだ。(切り札を持っている場合もある)
敵から見た物語を想像しよう。
「敗因は何だったのか、ラストシーンから遡って敵に反省会をさせる」
というエクササイズもある。
それが齟齬をきたしているなら、プロットに穴がある。
そもそも主人公より弱い敵はいない。
敵というのは、主人公より巨大で、数多く、そのときの世界で支配的だ。
それをひっくり返すことが、映画という娯楽の根本だ。
主人公側から見れば痛快な逆転劇をよりリアルにするには、
逆転される側からこの話を見たときにどうかを考えておくことが必要だ。
何故当初は圧倒的だったものが、逆転されてしまったのか、
敵だって馬鹿ではない。知恵や権力を使いだす。
にも関わらず逆転されたのは、
どこがターニングポイントだったのか、
敵側から見てみよう。
よくあるのは油断である。
敵の敵を当初は見ていたから、主人公を舐めていた、というタイプだ。
そこにリアリティーのあるように、敵の敵を考えておくことは重要だ。
相変わらず風魔の例を出すと、
夜叉一族は白凰を簡単に落とせると踏んでいた。風魔の小次郎が来るまでは。
風魔対夜叉の全面戦争になっても、
バラバラの夜叉が、絆のある風魔に、紙一重で及ばなかったのだ。
夜叉姫の最後の狂ったような嘆きは、その「反省会」を劇的なお芝居に仕立てただけだ。
聞く者すらいない一人芝居が、夜叉の壮絶な孤独を表現するのだ。
何故敵は負けたのか。
どこで逆転されたのか。
何故途中で潰せなかったのか。
敵の敵は、誰だったのか。
この辺りを、想像しよう。
コンフリクトが敵との対決でなくても、このパターンは生きる。
最強のライバルはどこで負け側へ転落したのか、
恋の相手は、いつ主人公に惚れたのか、
勿論、物語や人の気持ちはアナログだから、
ここから以降敗北、ここまで嫌いでここから好き、などのようにデジタルではなく、
常にぶれて浮き沈みする。
その浮き沈みを、相手側から想像するのだ。
主人公ばかり書いていると、そのような複眼を失う。
色々な角度から見ても辻褄があっていて、流れとして面白い話が、面白い話である。
昨今の詰まらない話には、この視点が足りない。
2013年11月07日
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