魅力的な人物は、どうやったらつくれるのか。
点と線の項で、そのいくつかは示した。
しかし、その過程で、生きたキャラクターになるかどうかは分からない。
その魂を入れる過程では、どうしてもこの過程を経る必要がある。
それは、作者の自我の分裂である。
自我には、攻撃的な面や、こわがりな面、理屈っぽい面や、かわいい面、
甘える面や、潔癖な面など、多角的な面がある。
人格は常にひとつではなく、
あることに反応する自我は毎回同じではなく、ある面が反応する。
そのときどきで、一番反応が早いか強い自我の面が主導権を握っているだけで、
記憶や自我意識(自分は一人の人格であるという自己意識)が、
それらを統一しているだけである。
精神分裂病(最近は解離性障害という)の話もしている。
我々の自我は、ひとつの認知、判断、感情ではなく、
複数または数えられないゾーン的な反応の集合体である。
それを、ひとつであるという自我意識で結合しているにすぎない。
それがうまくいかないのが、解離性障害だ。
自我が複数に分裂して、記憶や自己同一性を保てなくなる障害である。
別にこわいことではない。我々の精神とは、そのような構造なのだ。
昨日の俺と今日の俺で反応が異なることは、当たり前だ。
なぜ昨日あんなに魅力的だったものが、今日そうでないと思えるのに、
本人には明確な理由は見いだせない。
体調がある、とか、気分、とか理解するが、
それが、完全な同一自我が継続して存在していないことの証明である。
酒に酔った行為を後悔するのは何故かを考えればわかる。
自我は固定でなく、重なり合って変化しながら存在する。
解離性障害では、その自分と今の自分で、同じ自分だと本気で思っていないことが、
病的とされる点である。
思っていないどころか、記憶の共有もないので、それに気づかないことのほうが多い。
複数の自我の統一への原理がどのように行われているか、
これだ、という解答が現時点で得られているわけではない。
物語の創作過程では、分裂の危機を必ず味わう。
各人物のことを深く考えれば考えるほど、そうなる。
各人物に魂を入れるには、
どうしたってその人物と自分の一部の共通点を見いだす必要がある。
周りのオモシロおかしい人物をモデルにするのは代表的な人物創作法だが、
その人の持つリアルオモシロエピソードではない、次の新エピソードを創作するには、
その人に取材しても出てこない。
その人を魂の中に住まわせないと、出てくるものではない。
それは、自分の中にある、「その人っぽい部分」で、その人物になって発想する必要があるからだ。
(だから取材とは、その人を理解して、自分の中に住まわせる行為でもある)
複数の登場人物がいる場合、
Aは攻撃的な人物、Bはこわがりな人物、Cは理屈っぽく、Dはかわいい、Eは甘えん坊、
だとしたら、それは、自分のそのような面の反映の人物だということだ。
だから、物語の創作中は、自我の分裂の苦しみにあう。
それは、いずれ統合する。
物語の完結によってである。
(逆にうまく完成しない物語では、作者は統合しきれない苦しみに出会う。
力石徹やラオウの亡霊に悩まされたり、
宗方仁の死に耐えられなかった山本鈴香の例もある)
だから、各登場人物は、お互いかぶらない面を持ち、
奥底では作者の別の面の自我という点で、同一人物である。
作品が作者の内宇宙、というのはそのようなことだ。
全ての人物は作者であり、全ての人物は同一人物ではないほどに、分裂されている。
このような自我の分裂と統合のカタルシスを経験したことがないとしたら、
あなたはまだ本当の物語を書いていない。
表面的な人物像とその記録を書いているだけだ。
自我の分裂は、一種の恐怖であるが、
「全く別の役割を演ずることが出来る」という変身願望を満たすことも出来る。
複数の自我を使い分けているうちに、
それらがコンフリクトを巻き起こすのが物語だ。
自我のある面とある面がケンカをしたり情報を共有して同盟を組み、
悪い面をやっつけて、最後に統一という平和が訪れる。
これはほとんど分裂病の統合の過程である。
あなたは複数の自己を使い分けることが出来るだろうか。
分裂の恐怖におびえつつも、各人物に自分のある面という魂を割譲できるだろうか。
それが、互いに自動的にしゃべりはじめたら、
魂を持ち始めたということだ。
その場面を記録しておこう。
それらのメモがたまってきて、
プロットが練り直されて、自動的にしゃべらない人物がいなくなったときが、
執筆をはじめるときだ。
あとは統一へと、無意識が運んでくれる。
それがうまくいかないときは、理屈と感覚でのりきるのだ。
執筆の苦しさは、自我の統一の苦しさと同じなのかも知れない。
僕が「出来ていない物語」を批判するのはこの理由である。
自我の分裂と統合に、責任を持っていないからだ、と一言で言えば、
ここまで読んだ方は分かるかも知れないが、ここまで説明しないと逆にわかりづらいと思う。
※もし解離性障害が、全然違う感覚なら僕の誤解です、すいません。
逆に、解離性障害で物語作家のような人がいるのなら、その人の話も聞いてみたい。
2013年11月06日
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