自分で監督する前提の人と、脚本オンリーの人は、
脚本の「書き方」が、若干異なるかもしれない。
今日はそんな話。
僕は監督する前提で書く。
ビジュアル情報は書かない。頭の中で大体イメージ出来ている。
キャストの外見、服の形や色、舞台のイメージ、カメラのトーン、季節感など。
音の情報もあまり書かない。
音楽の感じ、どこで鳴るか、どんな曲か、そのテンポ。
効果音のイメージ。写実的効果音(見たままの音)と、
異物的効果音(タラちゃんの足音のような、見たものと違う音がするもの。
漫画的、シュール系、創作的な音)、静かなのかうるさいのか、テンポは。
このようなことは、脚本に書いてはいけない。
僕の頭の想像にあるものもあるが、
実際はプロフェッショナルが、自分の想像を超えてくれることを期待する。
ビジュアル設計や、音の設計のコンセプトを決めて、
それに沿ったり沿わなかったりで、いい意味でのコラボレーションが生まれるように調整する。
役者の台詞のニュアンスや、間についても脚本には書かない。
ほとんどは頭の中に正解があるが、役者とのやり取りでそれ以上を引き出すように決めていく。
脚本には、意味の構造を書く。
アップになりたいなら、アップで撮りたくなるような台詞や感情を書く。
引きで抑えたいなら、引きで撮りたくなるようなアクションや情感を書く。
冬服を着ている、とは書かず、冬特有のイベントや、冬にふさわしい寒さ/暖かさの物語を書く。
赤の印象的な風景、とは書かず、赤く塗るべきものが、話で重要アイテムになるように書く。
悲しい音楽、とは書かず、悲しい感情を書く。
へんてこな音が鳴る、とは書かず、へんてこな世界を書く。
そうすれば、おのずと、そのように演出せざるを得ない。
脚本と演出の理想的な関係はこのようでありたい。
もちろん、ディテールのイメージが脚本を書くのに助けになるのは当然だ。
その資料を監督に渡し、イメージの共有や発展を願うべきである。
逆に、演出で変なクセをつけなくては面白くない話は、
そもそも脚本が面白くない、ということになる。
フツーの話を、堤幸彦のトリック風に演出すれば、まずまず見れる物語にはなる。
トリック風味をのぞけば、たいした話になっていないのなら、
それはそもそも脚本がつまらなかったのである。
演出側から見れば、脚本にある要素を、素直に撮れば面白くなるのなら、
余計な演出をせずノーマルに撮る。
素材がいいときは刺身で出す、料理人の感覚である。
脚本が物足りないのなら、画的な仕掛け、音的仕掛け、
アートディレクションや音楽的構成という衣をまとわせる必要が出てくる。
料理で言えば、◯◯風煮込み、のように、その「世界」にしてしまうのだ。
素材だけでなく、スパイスやソースの力を借りるのだ。
脚本に、何をどこまで書くかは、慣れないと難しい。
他人の脚本を読むのは、ある程度脚本を書いている人には勉強になる。
この人はこう書くのか、と。
(逆に脚本があまり面白くない場合、監督のディテール演出で助けられたことが判断できる)
脚本と演出を分けて考えることができるのは、経験を積まないと難しい。
初心者は、すべてを書こうとしてしまう。
どれがムダな力が入ったものだったかは、経験を積むしかない。
監督が撮りたくなるような感情を書こう。
俳優が言いたくなるような台詞を書こう。
美術部や衣装部が世界を構築したくなる世界を書こう。
作曲家が心震えるような感情を書こう。
脚本にそれがあれば、専門のスタッフが増幅してくれる。
ないものは、増幅出来ない。
そしてその奥底にある、始まりと終わりと理屈がなければ、それも書けない。
あっと驚くどんでん返しや、矛盾なき世界、引きつけるストーリー展開は、
他のスタッフの領分ではなく、脚本家だけの領分だ。
脚本になければならないものを書くのが、必要十分の書き方である。
2013年11月10日
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