2013年11月11日

上手いログラインの書き方

ログラインとは、ワンラインとも呼ばれ、
話の内容を一行で書いたものである。
ハリウッドは英語だから一行を原則とするが、
日本語は二行ぐらいでもいい。日本語の文章は英語ほど明快に書けないから。

あらすじを書くのではない。
話のコンセプトを書く。

簡単なテンプレを。

「Aな主人公が、Bに出会ってCする話」と書くとよい。

Aは主人公の問題点や弱点、あるいは主人公の立場的に異質な性質
(コミュニケーションをしない男、優しい殺し屋、ぐうたら主婦、など)、
または、異物Bと真逆なAを書いておく。
Aと出会う異物Bは、人物でも、陥ったシチュエーションでも、
打破すべき状況でもよい。
それに出会った主人公が何をするかがCである。

例をあげよう。

ロッキー:チャンスに恵まれなかったロートルボクサーが、
世界戦が舞い込んで、自分の証明をする話。

マトリックス:この世界は夢ではないかと疑うハッカーが、
謎の男に出会い、本当の世界で救世主になる話。

ルパン三世カリオストロの城:かつてゴート札で失敗した世界的泥棒が、
追われる王女に出会い、国家的偽札犯罪を暴く話。

バックトゥザフューチャー:過去に行った高校生が、両親の出会いの場面を台無しにしてしまい、
両親のカップル成立に奮闘する話。

風魔の小次郎:忍び未満の若手小次郎が、
主君姫子に惚れ、白凰学院を救う話。


これで分かるように、良くできた話のログラインには、
コンフリクトやテーマが、既に暗示されている。
逆に、暗示されないログラインは、話としてまだぼんやりしていることの証拠である。

AとBの組み合わせが、話の大枠を示し、またオリジナリティを示す。
ここでよくある組み合わせなら、新鮮味はない。
どこかで見た設定や組み合わせでは駄目だ。

ここで「新しい発明」をすることが、名作への条件である。

風魔の小次郎は、主君と忍び、という基本的枠組みに学園ドラマのシチュエーションを用意した。
ロッキーの発明は、世界戦のチャンス、というアメリカンドリームだ。
マトリックスの発明は、真の世界に目覚める、という異世界ものの枠組みに、
ハッカーやコンピュータ(バーチャルリアリティー)を持ってきたことだ。
ルパン三世では、カリオストロ公国という舞台とヒロインクラリスが発明だ。
バックトゥザフューチャーは、過去の両親の出会いを邪魔してしまい、
母親に惚れられて、自分の存在が消えそうになる、というのが発明だ。

Bとの出会いは、異物論のことだ。
主人公への感情移入の端緒は、異物との出会いでもたらされるのであった。

出会ったあと、主に何をするかが、Cの要素だ。
僕の言う、動きである。
二幕やクライマックスの主人公の行動は、全てこの一言に要約できる。
第一ターニングポイント、第二ターニングポイントで、
暗示明示されるセンタークエスチョンは、
「主人公はCすることが出来るか?」である。

障害は暗示されている。内的な障害はAに、外的な障害は、異物Bに。
それを乗り越え、克服する動きがCであり、テーマなのだ。

これは、ほぼその物語の全てだ。
あとはディテールに過ぎない。(勿論ディテールがヌルイなんてあり得ないが)


ハリウッドの人達が何故ログラインを重視するのか分かるだろう。
優れた物語は、優れたログラインを書ける。
ログラインがよれているなら、物語自体もよれていることの証明だ。
ログラインとタイトルだけで、プロデューサーは内容の判断をするという。
本文は読まない。別の読む専門の人(リーダー)に任せるらしい。
その人が面白いと言えば、ログラインとタイトルの組は、製作開始となる。
プロデューサーの仕事は、面白い話を商売にすることだ。
面白く、斬新なログラインを、商売の軌道に乗せるため働く。
それを提供するのが我々の仕事である。

逆に言うと、観客にとってのあらすじや売りポイントは、さほど重要ではない。
(極端に言えば、プロデューサーが足すこともある。
キャスティングや大仕掛けや特別なロケーションやセットや大道具などで)
タイトルとログラインが、お話という作品の本質なのだ。


優れたログラインが書けるように、あなたの物語は書けているだろうか。
タイトルとログラインの組み合わせと、脚本本体は、正しい写像になっているか。

ログラインを、執筆前、執筆中に書くことは、書き手にとって有効だ。
ログラインが執筆中に変わることは、なくはない。
その場合、それで行くのなら、また頭から書き直す必要はある。

(5/20追記:比較的この記事はよく読まれているので。
上手いログラインの書き方には2があります。記事検索をおすすめします。
ログラインと脚本自体について、実地でやってみた例が、
脚本添削スペシャルにあるので、より理解が深まるかもです。
脚本添削スペシャルは、トップの記事からたどれます)



映画「いけちゃんとぼく」の脚本的失敗のひとつは、
第一稿のログライン「想像の世界に生きる子供が、父の死で現実に向き合い、解決する話」が、
制作途中の予算削減で、子供にとっての現実逃避先、「想像の世界」をつくる十分な予算がなくなり、
ログラインを変えるべきなのに、ただCG要素を減らす変更をしたからだ。
最終稿のログラインは、「いじめられている子供が、父の死という現実に出会い、解決する話」
となっている。部分の書き直しの集積の結果、子供中心の人間ドラマへと変貌していった。
多数出る予定だったCGがいけちゃん単独になった故だ。
このログラインにしては、ACT1の出来は中途半端だったに過ぎない。

ログラインは、話の骨格である。
骨格を変える変更は、全面書き直しを意味する。
それが、僕がものすごく上手く出来なかっただけである。
posted by おおおかとしひこ at 15:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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