物語の設定を考えるだけでは、脚本を書いたと言えない。
プロットや矛盾なき行動の連鎖を完成させても、
脚本を書いたと言えない。
その先にある、台詞や絵づくりを書いて、
はじめて脚本は脚本になる。
まずは、台詞と行動、つまり芝居で物語を書くので精一杯だろう。
台詞のみっつの機能で書いたように、
複数の機能を台詞に乗せ、密度を濃くしたり、
あえて無言にして感情をあらわしたり、
台詞で言わず行動で示したり、
名台詞や名フレーズを書いたり、
丁々発止のラリーを書いたり、
芝居で物語を書くことは、
ストーリーテリングの核のひとつである。
それぞれの立場や考えを台詞の対比で示したり、
二人の意見の相違や同意を、台詞の端々や行動で表現したり、
本心と違う台詞を書きながらも本心がにじみ出るように書いたり、
何かと何かが対になることでテーマを暗示したり、
芝居で出来ることは数限りなく奥深い。
しかし、それだけでは映画の脚本を書いたとは言えない。
何度か書いている、イコンをつくらねば、映画とは言えない。
これを絵づくりと呼ぶことにしよう。
二人がただ台詞を言い合う場面は、絵にならない。
(逆に、絵にならないからこそ、クライマックスは、
ただ二人が言い合うような、文脈だけの芝居で勝負することはある)
行動をしても、まだ絵になる行動とは限らない。
板の上の、舞台の場面なら名場面に仮になったとしても、
映画は、絵になる場面こそが名場面である。
逆に、「あの文脈の場面」という記憶は、
一枚の絵で記憶される(表象される)。
そうなるように、ただ二人が喋るのでない絵づくりをする。
便利なのは小道具だ。
例えば、「主人公が時間が十年経過してることを知り、驚く」
という今書いている場面では、
「実は十年経ったのだ」という台詞劇でも進行可能だが、
ショックを与える記憶に残る場面にしたいと思った。
そこで、子供の頃のブリキのおもちゃがすっかり錆びており、
それを掴むとぼろりと崩れ落ちる、ショックのある場面とした。
それを描くため、それ以前の場面で、
ブリキのおもちゃを落とす芝居などを伏線として仕込む。
これだけだと時間経過は示せるが、10という数字は示せないため、
十年に一度咲く花、という伏線を仕込む。
その花に囲まれ、掴んだおもちゃが崩れる、
という絵になるシーンになった。
「十年経過したことを知り驚く」というプロットが、
「実は十年経ったのだ」「ええっ?!」という台詞劇に変換され、
それが絵で語られる場面に変換される。
脚本を書くということは、このようなことだ。
プロットが面白いことは最低限必要だ。
矛盾や穴のない、隙のない各人物のストーリーラインは勿論、
その基礎になる焦点とターニングポイント、
センタークエスチョンや感情移入やコンフリクトや異物との出会い、
そもそものコンセプトやキーアイデアの面白さ、斬新さ、新しさ、
物語としての面白さは、最低限必要だ。
それに加えて、芝居としての面白さが必要である。
更に、二人が喋るのでない、絵として記憶されなければならないのだ。
書いていてちょっと気が遠くなってきた。
脚本とは、なんと難しいものか。
しかも、万人に分かる、シンプルで強いものが理想だ。
なんという難しい頂であろう。
もうちょい、いい脚本のギャラ上げてもいいよねえ。
2013年11月19日
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