2013年11月19日

設定、台詞、絵

物語の設定を考えるだけでは、脚本を書いたと言えない。
プロットや矛盾なき行動の連鎖を完成させても、
脚本を書いたと言えない。

その先にある、台詞や絵づくりを書いて、
はじめて脚本は脚本になる。

まずは、台詞と行動、つまり芝居で物語を書くので精一杯だろう。
台詞のみっつの機能で書いたように、
複数の機能を台詞に乗せ、密度を濃くしたり、
あえて無言にして感情をあらわしたり、
台詞で言わず行動で示したり、
名台詞や名フレーズを書いたり、
丁々発止のラリーを書いたり、
芝居で物語を書くことは、
ストーリーテリングの核のひとつである。
それぞれの立場や考えを台詞の対比で示したり、
二人の意見の相違や同意を、台詞の端々や行動で表現したり、
本心と違う台詞を書きながらも本心がにじみ出るように書いたり、
何かと何かが対になることでテーマを暗示したり、
芝居で出来ることは数限りなく奥深い。

しかし、それだけでは映画の脚本を書いたとは言えない。
何度か書いている、イコンをつくらねば、映画とは言えない。
これを絵づくりと呼ぶことにしよう。

二人がただ台詞を言い合う場面は、絵にならない。
(逆に、絵にならないからこそ、クライマックスは、
ただ二人が言い合うような、文脈だけの芝居で勝負することはある)
行動をしても、まだ絵になる行動とは限らない。

板の上の、舞台の場面なら名場面に仮になったとしても、
映画は、絵になる場面こそが名場面である。

逆に、「あの文脈の場面」という記憶は、
一枚の絵で記憶される(表象される)。
そうなるように、ただ二人が喋るのでない絵づくりをする。

便利なのは小道具だ。
例えば、「主人公が時間が十年経過してることを知り、驚く」
という今書いている場面では、
「実は十年経ったのだ」という台詞劇でも進行可能だが、
ショックを与える記憶に残る場面にしたいと思った。

そこで、子供の頃のブリキのおもちゃがすっかり錆びており、
それを掴むとぼろりと崩れ落ちる、ショックのある場面とした。
それを描くため、それ以前の場面で、
ブリキのおもちゃを落とす芝居などを伏線として仕込む。
これだけだと時間経過は示せるが、10という数字は示せないため、
十年に一度咲く花、という伏線を仕込む。
その花に囲まれ、掴んだおもちゃが崩れる、
という絵になるシーンになった。

「十年経過したことを知り驚く」というプロットが、
「実は十年経ったのだ」「ええっ?!」という台詞劇に変換され、
それが絵で語られる場面に変換される。

脚本を書くということは、このようなことだ。


プロットが面白いことは最低限必要だ。
矛盾や穴のない、隙のない各人物のストーリーラインは勿論、
その基礎になる焦点とターニングポイント、
センタークエスチョンや感情移入やコンフリクトや異物との出会い、
そもそものコンセプトやキーアイデアの面白さ、斬新さ、新しさ、
物語としての面白さは、最低限必要だ。

それに加えて、芝居としての面白さが必要である。
更に、二人が喋るのでない、絵として記憶されなければならないのだ。

書いていてちょっと気が遠くなってきた。
脚本とは、なんと難しいものか。
しかも、万人に分かる、シンプルで強いものが理想だ。
なんという難しい頂であろう。
もうちょい、いい脚本のギャラ上げてもいいよねえ。
posted by おおおかとしひこ at 01:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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