逆説的に言ってみる。
脚本に書いてあるのは、柱と台詞とト書きしかない。
そこに、ストーリーは直接書かれていない。
ストーリーとは、三幕構成や、
ターニングポイントと焦点と行動の連鎖であり、
複数の人物の動機や行動の矛盾のない一連であり、
感情や動機の推移であり、
異物との出会いからはじまる日常回復の冒険であり、
動きであり、
テーマである。
それは、論文のように書かれているわけではない。
台詞とト書きという、表現形式で書かれている。
極端に、同じストーリーを、脚本で書く場合と、
音楽で奏でる場合の二つで考えればわかる。
(音楽とストーリーが一対一対応できるかは、ちょっと置いとく)
音楽は、音符や休符や編成のことだから、
ここにも直接ストーリーは書いていない。
台詞とト書きがストーリーの正体ではない。
それは表現形式のひとつに過ぎないのだ。
ゲームの台本は、質問と選択肢の組み合わせで分岐的に書くという。
そこにもストーリーそのものが書かれているわけではない。
ストーリーは、表現形式の上位概念だ。
ストーリーは、表現形式で受肉するのである。
どんなに素晴らしいストーリーでも、表現が詰まらないのはダメだ。
どんなに表現が素晴らしくとも、ストーリーがダメなものはダメだ。
脚本は、ストーリーを書くのではない。
台詞とト書きで、ストーリーを表現するものなのだ。
三幕の切れ目や、ここからここまでがターニングポイントだ、とか、
伏線に線が引いてあったり、今の焦点が何か、いちいち書いていない。
脚本に書いてあるのは、台詞とト書き(と柱)でしかない。
ストーリーを練る力と、表現力は、厳密には違う能力だ。
同じストーリーでも、台詞やト書きで、出来は変わる。
ストーリーは、脚本には書いていないという逆説的な認識。
あなたは何を書いているのか、時々見失ったら思い出して欲しい。
2013年11月19日
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