2013年11月20日

理系的な力と文系的な力

脚本を書く上で、ふたつの力が必要だと思う。
素人さんは、文章だから、文系的な力だけで書いていると思うだろう。
否である。
理系的な力も、必要だ。

理系的な力とは、何も相対性理論をわかっていたりとか、
テレビの接続が出来る、とかではない。
構成力のことである。

構成力とは、ストーリーを三幕構成にする力のことだ。
論理的構築力、分析力などがいる。
複数の人物の動機や行動の矛盾のない一連をつくるのは、
まるで論理構造の構築と同じだ。
論理的破綻(無理がある、おかしい)した脚本を書く人は、
論理構造の隅々に気がいかない人なのである。
文系職業である、法律家や弁護士も、似たような論理的構築力を使っている気がする。
抽象概念を頭のなかで使う力、といってもよい。
具体を代入せず、記号で操作する抽象思考力、と言ってもよい。
執筆前、執筆中ばかりでなく、
分析再構築するリライトで必要な力でもある。

僕はリライトを時に手術に例える。
医者は、理系だ。

ピクサーの脚本理論(全貌は公開されておらず、
一幕部分はよく見る)は、
まるで工場で部品を量産したり、
プログラミングで脚本が出来るかのような、
非常に体系化された、理系的な力の匂いがする。
もうちょい人間臭いものだろ、脚本は、と突っ込みたくなるくらいだ。

ピクサーは、複数の脚本家で書くシステムだ。
脚本家ではなく、ストーリーデベロッパーとしてクレジットされる。
複数の人が書くもののばらつきを、工場で生産する部品のように、
規格を厳密に決めて制御する設計書のような方法論だ。
物語を情念で書ききると思う日本人の感覚とは真逆である。

ピクサーのシステムは、
プロデューサーから見て理想的である。
毎年毎年、同じレベルの脚本が「生産」されるというペースがあるから、
これを元に経営的な長期計画が可能である。
新しいCGのやり方に長期開発投資したり、
人材を増やしたり、安定した新作供給ベースの経営が可能になる。
映画会社経営を、漁業や狩猟ではなく、
稲作や工業のように捉える考え方である。

脚本を作品という不安定な、いつ出来るとも分からず、
出来不出来の落差のあるものにせず、
一定の高クオリティに保つための方法論なのだ。
ハリウッドでは、脚本工学という言葉もあるくらいだ。
一人の天才の閃きに頼らず、複数の優秀な集団で、
確実に大量生産を狙う考え方である。
映画を博打でなく、産業や経営で考えるということは、
そのようなことであるかも知れない。

日本でそれをやっているのは、東映が代表的だ。
東映は映画で冒険的なことをしたがる。
それは、仮面ライダーと戦隊シリーズが、毎年安定した収入をもたらすからだ。
(刑事物、時代劇もその枠かも)
それらは斬新なものや野心的なものより、一定のクオリティを求められる。
東宝でも同じで、ドラえもんとコナンがそれに当たる。
松竹ならかつての寅さんだ。
長期シリーズが腐る訳だ。
シリーズの展開よりも、一定のクオリティのほうが重要なのだから。
新しい展開よりも、続けることが使命となった物語は、
生気を失う。


一方、脚本には、文系的な力が必要であることは、
論を待たないであろう。ことばの教養は、何にも増して重要だろう。
名台詞や間や語り口の面白さは、理系的な理論で追いつかないところだ。

どんな理論からも、決して小次郎の告白の場面のような名場面は生まれない。
あれは魂の憑依と、経験談(好きな所を10言う、というバカカップルのやり方)を
組み合わせたものである。
理論的には、冒頭に白凰理念の伏線を仕込む、という部分だけだ。
しかし、「強い善人であれ」というオリジナルフレーズは、
理論からではなく、僕の直感や無意識から生まれたものである。

理論は、再現性があるものだ。
しかし名台詞や閃きには再現性がない。
出来るだけ理論で構築しておいて、
あとは自由演技で書く、
というのが理想の執筆形式だと思う。


ちなみに、僕は理系出身だったりします。
若干ロマンチストでカンフー好きなだけ(笑)の。
posted by おおおかとしひこ at 11:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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