脚本を書く上で、ふたつの力が必要だと思う。
素人さんは、文章だから、文系的な力だけで書いていると思うだろう。
否である。
理系的な力も、必要だ。
理系的な力とは、何も相対性理論をわかっていたりとか、
テレビの接続が出来る、とかではない。
構成力のことである。
構成力とは、ストーリーを三幕構成にする力のことだ。
論理的構築力、分析力などがいる。
複数の人物の動機や行動の矛盾のない一連をつくるのは、
まるで論理構造の構築と同じだ。
論理的破綻(無理がある、おかしい)した脚本を書く人は、
論理構造の隅々に気がいかない人なのである。
文系職業である、法律家や弁護士も、似たような論理的構築力を使っている気がする。
抽象概念を頭のなかで使う力、といってもよい。
具体を代入せず、記号で操作する抽象思考力、と言ってもよい。
執筆前、執筆中ばかりでなく、
分析再構築するリライトで必要な力でもある。
僕はリライトを時に手術に例える。
医者は、理系だ。
ピクサーの脚本理論(全貌は公開されておらず、
一幕部分はよく見る)は、
まるで工場で部品を量産したり、
プログラミングで脚本が出来るかのような、
非常に体系化された、理系的な力の匂いがする。
もうちょい人間臭いものだろ、脚本は、と突っ込みたくなるくらいだ。
ピクサーは、複数の脚本家で書くシステムだ。
脚本家ではなく、ストーリーデベロッパーとしてクレジットされる。
複数の人が書くもののばらつきを、工場で生産する部品のように、
規格を厳密に決めて制御する設計書のような方法論だ。
物語を情念で書ききると思う日本人の感覚とは真逆である。
ピクサーのシステムは、
プロデューサーから見て理想的である。
毎年毎年、同じレベルの脚本が「生産」されるというペースがあるから、
これを元に経営的な長期計画が可能である。
新しいCGのやり方に長期開発投資したり、
人材を増やしたり、安定した新作供給ベースの経営が可能になる。
映画会社経営を、漁業や狩猟ではなく、
稲作や工業のように捉える考え方である。
脚本を作品という不安定な、いつ出来るとも分からず、
出来不出来の落差のあるものにせず、
一定の高クオリティに保つための方法論なのだ。
ハリウッドでは、脚本工学という言葉もあるくらいだ。
一人の天才の閃きに頼らず、複数の優秀な集団で、
確実に大量生産を狙う考え方である。
映画を博打でなく、産業や経営で考えるということは、
そのようなことであるかも知れない。
日本でそれをやっているのは、東映が代表的だ。
東映は映画で冒険的なことをしたがる。
それは、仮面ライダーと戦隊シリーズが、毎年安定した収入をもたらすからだ。
(刑事物、時代劇もその枠かも)
それらは斬新なものや野心的なものより、一定のクオリティを求められる。
東宝でも同じで、ドラえもんとコナンがそれに当たる。
松竹ならかつての寅さんだ。
長期シリーズが腐る訳だ。
シリーズの展開よりも、一定のクオリティのほうが重要なのだから。
新しい展開よりも、続けることが使命となった物語は、
生気を失う。
一方、脚本には、文系的な力が必要であることは、
論を待たないであろう。ことばの教養は、何にも増して重要だろう。
名台詞や間や語り口の面白さは、理系的な理論で追いつかないところだ。
どんな理論からも、決して小次郎の告白の場面のような名場面は生まれない。
あれは魂の憑依と、経験談(好きな所を10言う、というバカカップルのやり方)を
組み合わせたものである。
理論的には、冒頭に白凰理念の伏線を仕込む、という部分だけだ。
しかし、「強い善人であれ」というオリジナルフレーズは、
理論からではなく、僕の直感や無意識から生まれたものである。
理論は、再現性があるものだ。
しかし名台詞や閃きには再現性がない。
出来るだけ理論で構築しておいて、
あとは自由演技で書く、
というのが理想の執筆形式だと思う。
ちなみに、僕は理系出身だったりします。
若干ロマンチストでカンフー好きなだけ(笑)の。
2013年11月20日
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