2013年11月27日

体で書く

本は足で書く。よく言われることだ。
これは取材するために、色々回れという意味だ。
(今でこそネットが図書館通い分を楽にしたが、
現場へ赴く取材の必要は同じである)

これと似せれば、脚本は体で書く、と言える。

何故なら、脚本とは、「演じられる」ことが前提だからだ。
脚本の中の全ての台詞は音読される。

あなたの脚本の台詞を、あなた自身が、通しで音読したことがあるだろうか。
音で聞いて分かりにくい言葉に気づいたり(些末なこと)、
テンポやニュアンスの良し悪しに気づいたり(中程度に大事なこと)、
グイグイ引き込む朗読になっているかどうかチェックしたり(最も大事なこと)、
していないとすると、
それは多分、「頭で書いた」脚本に過ぎない。

映画を見る側から考えよう。
映画は「見る」だけのものだろうか。
映画を見る行為は、リアルな空間のお話しを自分の中に構築する行為だ。
映画は見るだけではない。体験する行為である。
良くできた物語は、世界を疑似体験させる。
映画は、体で見る。

それと同じ体験を感じさせるには、
体験のように、書く。


リライトは、頭でやってしまうことがある。
都合や矛盾解消の伏線など、
修正は頭で処理したものが多い。
しかし、それは体験するものではない。
体験の脚本内に、頭で考えたもののノイズが入ることになる。

体で書くオススメの方法は、
白紙を前に、手書きで一から書くことだ。

白紙が一度状況をリセットさせ、
五感を敏感にさせて周囲の状況を探ろうとする。
手で書くのは、ワープロより体験的だ。
だが、文脈をもっともリアルにつくれる。

次善は、目をつぶったまま、
喋り続ける方法。
喋るのは、手で書くより、頭の中の情報量が少なくなりがちだが、
よりリアルな文脈をつくりやすい。
多くのライターは、小さな録音機を持っている。
夜中に再生しながら文字起こしをしている。

目の前にあるワード原稿に赤を入れる方法は、
頭で書いたものになりやすい。


なるべく体で書こう。
昔の文豪が酒を飲みながら書いたのは、
頭を休ませ体の感覚にする方法論ではないかと、勝手に想像している。
さらに身体感覚を拡張させたドラッグ芸術(LSDによるサイケデリックなど)
は昔からあるが、あまりオススメではない。シラフに戻ったとき、
耐えられない位恥ずかしいらしい。それでキメないと書けないという悪循環に入ることになる。
批判する頭と、体験する体の感覚を、双方研ぎ澄ませなければ、体験的感覚は書けない。
posted by おおおかとしひこ at 12:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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