本は足で書く。よく言われることだ。
これは取材するために、色々回れという意味だ。
(今でこそネットが図書館通い分を楽にしたが、
現場へ赴く取材の必要は同じである)
これと似せれば、脚本は体で書く、と言える。
何故なら、脚本とは、「演じられる」ことが前提だからだ。
脚本の中の全ての台詞は音読される。
あなたの脚本の台詞を、あなた自身が、通しで音読したことがあるだろうか。
音で聞いて分かりにくい言葉に気づいたり(些末なこと)、
テンポやニュアンスの良し悪しに気づいたり(中程度に大事なこと)、
グイグイ引き込む朗読になっているかどうかチェックしたり(最も大事なこと)、
していないとすると、
それは多分、「頭で書いた」脚本に過ぎない。
映画を見る側から考えよう。
映画は「見る」だけのものだろうか。
映画を見る行為は、リアルな空間のお話しを自分の中に構築する行為だ。
映画は見るだけではない。体験する行為である。
良くできた物語は、世界を疑似体験させる。
映画は、体で見る。
それと同じ体験を感じさせるには、
体験のように、書く。
リライトは、頭でやってしまうことがある。
都合や矛盾解消の伏線など、
修正は頭で処理したものが多い。
しかし、それは体験するものではない。
体験の脚本内に、頭で考えたもののノイズが入ることになる。
体で書くオススメの方法は、
白紙を前に、手書きで一から書くことだ。
白紙が一度状況をリセットさせ、
五感を敏感にさせて周囲の状況を探ろうとする。
手で書くのは、ワープロより体験的だ。
だが、文脈をもっともリアルにつくれる。
次善は、目をつぶったまま、
喋り続ける方法。
喋るのは、手で書くより、頭の中の情報量が少なくなりがちだが、
よりリアルな文脈をつくりやすい。
多くのライターは、小さな録音機を持っている。
夜中に再生しながら文字起こしをしている。
目の前にあるワード原稿に赤を入れる方法は、
頭で書いたものになりやすい。
なるべく体で書こう。
昔の文豪が酒を飲みながら書いたのは、
頭を休ませ体の感覚にする方法論ではないかと、勝手に想像している。
さらに身体感覚を拡張させたドラッグ芸術(LSDによるサイケデリックなど)
は昔からあるが、あまりオススメではない。シラフに戻ったとき、
耐えられない位恥ずかしいらしい。それでキメないと書けないという悪循環に入ることになる。
批判する頭と、体験する体の感覚を、双方研ぎ澄ませなければ、体験的感覚は書けない。
2013年11月27日
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