赤に青を足して、紫にならないうちに黄色を足し、緑を足し、
まだら模様の、ひとことでは言えない塊になることは、
練っているときにはよくある。
複雑すぎてもう少しシンプルなほうが、と言われたりする。
それなりに気に入ったアイデアばかりなので、
どれを削るのも嫌だったりする。
アイデアが多いか適切な標準量かは、
その話を体験するうえで、わかっていなくてはならないことが、
どれだけあるかを書き出してみるとよい。
最初にガッツリ説明するタイプでも、
徐々にわかってくるタイプの話でも構わない。
ここから本題の話、になるまで、
結構分からなきゃならない要素多いなあ、
と思えば、アイデアのどれかを捨てることを検討してみるとよい。
そのためには、「この話の本題」が何かを見極める必要がある。
ブレイク・シュナイダーは、「save the cat」で、
ACT 2の前半部を、お楽しみポイントと呼ぶ。
センタークエスチョンが明らかになってから、
ミッドポイントに至る30分間をそれに当てる。
彼はコメディの名手なので、コメディを考えると分かりやすい。
「愛しのローズマリー」では、
美女にしか興味のない男が、催眠術師に催眠術をかけられ、
「心の美醜が顔の美醜に見えてしまう」ようになる。
客観的には120キロのローズマリーに彼は出会う。
彼目線では、彼女はグゥィネスパルトロウに見える、という話だ。
この映画でのお楽しみポイントは、
超巨漢の彼女とのデートシーンである。
彼目線では美女が水着でプールに飛び込んだだけなのに、
滅茶苦茶水しぶきが上がる、とか、
ボートデートすると彼女側だけが沈み、自分側が浮いて漕げなくなる、とか、
ベッドに入り、グゥィネスが下着をウインクしながら投げて寄越すと、
自分より横幅が大きいパンツを受けとることになる、
などの、催眠術ゆえのコントが満載である。
お楽しみポイントは、予告編でもっとも使われ、
この話を見に行きたい、と観客が楽しみにする場面のことだ。
勿論、その裏にあるテーマ、恋は見た目か心か、という古典的なテーマが
隠されていることは皆がわかるし、そのテーマであるからこのコントが面白い。
この話のセットアップから、いずれこの催眠術がとけて真実を知ったとき、
彼がどういう決断をするか、という期待がなされる。
デブでも心が綺麗な彼女を受け入れるのか、それとも幻滅して終わりか。
(受け入れるハッピーエンドが期待される。
なぜならこれは人生を戯画的に肯定するコメディだから)
最も描きたい瞬間は、解決の瞬間であるべきだ、
というのは僕の主張である。
この映画でも、人は見た目じゃないさ、と主人公が結論づける瞬間がピークであるべきだ。
(筈なのに、ちょっと甘かった。この減点ポイントで、永遠の名作から、
秀作のレベルに落ちてしまった、大変惜しい映画である)
まずは、そうなっているかをチェックしよう。
アイデアたちは、解決の一点に向けて収束する。
これに関係した最重要アイデアが、残すべき最も大事なアイデアだ。
解決の瞬間と、お楽しみポイントは表裏一体の関係にある。
お楽しみポイントを前提として、解決が組まれているか、
チェックされたい。
「愛しのローズマリー」でも、面白おかしい(でも彼はベタぼれ故に全く気づいていない)
デートがあるからこそ、彼女を受け入れる、ということに直結する。
その因果の糸に、
関係するアイデアは全て必要であり、存在意義がある。
それに関係ないアイデアが、削るものの候補である。
センタークエスチョンとその解決をつくったとしても、
どういうことが起こって面白くなるか、という具体的お楽しみポイントがなければ、
お話は面白くない。
僕は冒険の内容、ととらえる。
「ジュラシックパーク」で言えば、恐竜の島から脱出する、
というセンタークエスチョンに対して、
この島はどうなっていて、どういう恐竜から脱出すればよいか、
が冒険の内容だ。
そこに脳ミソをひねり、アイデアを足して行く。
それに必要な設定はACT 1に必要になるので、
設定を足す必要が生じる。
これがアイデアが増え、本編に必要な説明が増えることの原因である。
お話を、お楽しみポイントと解決の軸でみて、
それがひとつのコンセプトで貫かれているようにしよう。
そのコンセプトから演繹されていれば、アイデアはいくつあってもいい。
そのコンセプトが入り乱れることが、
アイデアが増えていることの原因である。
アイデアを削るためには、そこから逆算されるべきである。
気に入ったアイデアかどうかは関係なく、客観的に整理してみよう。
やりたいアイデアを残す、では、いつまでたっても未練が残る。
面白いアイデアを残す、でも、アイデアの喧嘩が起こり、混ざらない粘土になる。
お楽しみポイントと解決の糸、という客観的軸でアイデアを切り捨てるとよい。
切り捨てられた面白いアイデアは、他の作品に取っておこう。
手塚治虫は、そんなアイデアをノート何冊分も持っていた。
別の話が、そこから生まれる(すなわち、お楽しみポイントまたは解決になる)
こともあっただろう。
切り捨てられたあとの残りのシナリオは、
少し足りないものになっているだろう。
まずはぐっすり寝て、一回忘れよう。
しばらく考えていると、
決めたひとつのコンセプトから導かれたアイデアが湧いてきて、
自然に形が整う。
白紙に一からプロットを書いていくとよい。
それはそれでひとつのコンセプトから導かれた、
素直な面白い話になる筈だ。
その上で、また足したり引いたりを考える必要があれば、練るとよい。
ブクブク太った複数の腫瘍を切除して、
肉体の自然回復を待つイメージだ。
どれが本筋でどれが腫瘍かを見極められれば、
切除は難しくないだろう。
「愛しのローズマリー」では、
親友に尻尾が生えていて、というアイデアがある。
肉体の異形と心いうテーマではあるが、
本題の恋とは、関係がない。
切除するべきアイデアであったような気がする。
膨らませれば、デブだけでなく奇形にまで発展したのだが、
(四足で歩く友人などもその名残だ)
それはお楽しみポイントと解決には不要なアイデアに思える。
一方全身火傷の子供たちの秀逸なエピソードや、
ドライブデートする、顔は綺麗だが心は醜いため主人公にはブスに見える看護婦のエピソード、
などは、ローズマリーの心の美しさに関するエピソードのため、
お楽しみポイントから解決の軸、ひとつのコンセプトと直結している。
その差である。
今書いている話では、
どうも水と油のような、混ざりあわないアイデアが、ふたつあるような気がして、
一方を切り捨て残りをメインにしたもの、
2バージョンのプロットを書いてみた。
どちらのお楽しみポイントから解決の軸が、そもそもやろうとしていたことか、
あるいはどちらが見たいか、で比較することが出来た。
プロットを一から書くことで、この話はどんな話か、という外の視点に立つことが出来る。
アイデアを練るということは、このようなことである。
アイデアの数ではない。混ざって一体になるかどうかだ。
2013年11月28日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック