セカイ系が何故生まれるのか。
それは、人間対人間という、コンフリクトになっていないからだ。
劇という物語形式は、人間と人間の対立を描く。
これが、人間対セカイになってしまうものをセカイ系と言う。
セカイ系の定義は広いのだが、
主人公と身内含む周りしか世界にいなくて、
焦点が世界の滅亡や再生であるもの、
としておこう。
セカイ系の扱うテーマは、
成長過程の自我である。
自我と世界の関係が定まりきらず、その不安定さに耐えられない不安が、
物語のエンジンである。
だから周囲の身近な人と、抽象的な世界しか物語には出てこない。
成長中の自我に取ってはそれが世界の全てだからだ。
自分と周囲しかない子供の世界から、
より広い「世界」という概念を知ったとき、成長ははじまる。
世界という抽象的な概念から、世界には色々な人がいる(地理的なことから歴史的なことまで)、
という具体的描像になるまでを「世界を把握する過程」だとすると、
その具体に至る前の、抽象的な「概念としての世界の状態」が、
セカイ系における世界の描像だ。
だからセカイ系には、周囲の人間以外は出てくることなく、
逆に世界の物理法則、因果の法則、ビッグバン、並行世界、
悪魔と神(秩序的)、妖精や妖怪(非秩序的)などの抽象概念が、
具体的な「世界の人々」より優先して存在する。
世界の法則を知ることが世界を知ることであり、世界の人々より優先順位が高い。
(大抵、世界の崩壊の犠牲になるかどうかや、
人類に存在価値はあるか、という大局的存在としてしか存在しない)
それは、成長中の自我にとっては、自我、周囲、世界、
ぐらいしか、粒度を細かく出来ないからだ。
これが世界を細かく知ってゆく、即ち、
ある程度の物理や科学を知り、
外国の歴史やリアルを知り、
国内の社会の仕組みや自分以外の人々の内面を知り、
様々な経験を経ると、
粒度は更に細かくなり、自我、周囲、人々、社会、世界などのようになってゆく。
それが大人になるという経験でもある。
だから、成長した大人はセカイ系に興味がない。
大人でセカイ系を見る人は、いまだ大人になりきれていない人か、
成長中のリアルな記憶を持つ人だけだ。
セカイ系は閉じている。
人々や社会を知る機会を奪い、世界の滅亡に終始している。
終末論は、昔のセカイ系だ。
神話も、昔のセカイ系だ。
宗教は、昔からの世界をどう理解するかという体系だが、
セカイ系的中二病的ディテールが多分に含まれる。
開祖からその状態だったのか、
伝搬の途中にそのような状態のほうが通りがよかったのかは謎だ。(恐らく後者)
ここから本題。
セカイ系は、自分と世界がコンフリクトを起こしている。
闘う相手は、世界を崩壊させる○○であるが、
大抵は、自分の中の△△がラスボスになる。
○○は人格を持たない。世界の表象でしかなく、人間でないことが多い。
物語とは、人間と人間のコンフリクトを描くものだ。
だからセカイ系のクライマックスは、
弱い自我ともう一人の自分△△との対決になる。
△△は分裂した自分だったり、親友だったり、身内だったりする。
「世界」という概念を知る前の、初期世界に属するもの。
その決別や乗り越えることを描くのがセカイ系のテーマだ。
なんてことない、初期世界から認識する世界が広がることの暗喩である。
物語とは、コンフリクトを描くものだ。
つまらない物語はどうでもよいが、面白い物語には、必ずコンフリクトがある。
心の中の葛藤のことではなく、対立、衝突、確執、因縁などである。
(それがあれば、自然に心の中には葛藤が生まれる)
葛藤だけが存在すると、劇という三人称スタイルでは示せない。
そこで、それが目に見えるコンフリクトに置き換えられている、
と考えるのが正しい。
「警察の腐敗」を劇で描くなら、
犯人は署長で、その放逐こそ警察の浄化、とするのが劇だ。
放逐の過程、抵抗してくる署長などのバトルが本編である。
目に見えない抽象的な警察世界を、署長という具体的人間で代表するのだ。
セカイ系の劇としての問題点は、
自我と世界がコンフリクトになっていることだ。
どうしても劇にならないので、△△がラスボスになる。
そこに至るまでのお話が本編になってしまう。
△△がラスボスと判明するまでの本編は、だからなんだか劇ではないものになる。
劇とは、人間と人間のコンフリクトだからだ。
人間と人間のコンフリクトが本編になるように、
物語を書こう。
メインコンフリクトの他に、サブコンフリクトもつくろう。
サブプロットがメインプロットに影響するようにすると、
単純な対立構造を避けられる。
物語は、人間対人間であり、
人間対世界ではない。
セカイ系の限界は、劇物語になれないことだと思う。
成長中の自我をうまく切り取って、同時代の共感を得ることは多いけれども、
メジャーには永遠にならない。
それは、物語を楽しむ人には、単純に、大人もいるからである。
(ただ、大人もかつて成長中だった。だから、セカイ系の匂いは好きなのだ)
うまく人間対人間に本編を持ってくるようにすると、
セカイ系は途端に劇物語になるだろう。
まどマギをようやく見た。最新の劇場版はまだだ。
これはセカイ系に属するものだが、
セカイ系がメジャーでない海外の反応が、
これは物語ではない、と一様に言っていて面白い。
分かる、という一部がいるのも面白い。
あの話が、人間対人間になっていたら、物語足り得たかも知れない。
(魔法少女vsワルプルギス、魔法少女vsQBなどを主たる対立構造にする。
すなわち、ワルプルギスやQBの事情や動機を、魔法少女たちと同様に深く描写し、
その相容れない目的が対立するさまを描く。QBに関してはある程度描写されたが、
感情のない生命体である以上、QBがコンフリクトの対象であるべき「人間」ではなかった。
SFは世界を描くセカイ系と相性が良い。SFの限界は、世界を解き明かすことが、
人間対人間のドラマにならないところだ。すなわち、SFやセカイ系は、
狭義では、ドラマではない)
実際面白いところは、
憧れた瞬間のマミの死、さやかと京子の下り、さやかの魔女落ち、
ほむらの闘う動機など、人間対人間のドラマになっているところだし。
なんか概念的だなあ、と思っていたらまどかが「概念」になって笑ってしまった。
2013年11月29日
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