2013年11月29日

人間対人間

セカイ系が何故生まれるのか。
それは、人間対人間という、コンフリクトになっていないからだ。
劇という物語形式は、人間と人間の対立を描く。
これが、人間対セカイになってしまうものをセカイ系と言う。

セカイ系の定義は広いのだが、
主人公と身内含む周りしか世界にいなくて、
焦点が世界の滅亡や再生であるもの、
としておこう。

セカイ系の扱うテーマは、
成長過程の自我である。
自我と世界の関係が定まりきらず、その不安定さに耐えられない不安が、
物語のエンジンである。

だから周囲の身近な人と、抽象的な世界しか物語には出てこない。
成長中の自我に取ってはそれが世界の全てだからだ。
自分と周囲しかない子供の世界から、
より広い「世界」という概念を知ったとき、成長ははじまる。

世界という抽象的な概念から、世界には色々な人がいる(地理的なことから歴史的なことまで)、
という具体的描像になるまでを「世界を把握する過程」だとすると、
その具体に至る前の、抽象的な「概念としての世界の状態」が、
セカイ系における世界の描像だ。

だからセカイ系には、周囲の人間以外は出てくることなく、
逆に世界の物理法則、因果の法則、ビッグバン、並行世界、
悪魔と神(秩序的)、妖精や妖怪(非秩序的)などの抽象概念が、
具体的な「世界の人々」より優先して存在する。
世界の法則を知ることが世界を知ることであり、世界の人々より優先順位が高い。
(大抵、世界の崩壊の犠牲になるかどうかや、
人類に存在価値はあるか、という大局的存在としてしか存在しない)

それは、成長中の自我にとっては、自我、周囲、世界、
ぐらいしか、粒度を細かく出来ないからだ。

これが世界を細かく知ってゆく、即ち、
ある程度の物理や科学を知り、
外国の歴史やリアルを知り、
国内の社会の仕組みや自分以外の人々の内面を知り、
様々な経験を経ると、
粒度は更に細かくなり、自我、周囲、人々、社会、世界などのようになってゆく。
それが大人になるという経験でもある。

だから、成長した大人はセカイ系に興味がない。
大人でセカイ系を見る人は、いまだ大人になりきれていない人か、
成長中のリアルな記憶を持つ人だけだ。


セカイ系は閉じている。
人々や社会を知る機会を奪い、世界の滅亡に終始している。

終末論は、昔のセカイ系だ。
神話も、昔のセカイ系だ。
宗教は、昔からの世界をどう理解するかという体系だが、
セカイ系的中二病的ディテールが多分に含まれる。
開祖からその状態だったのか、
伝搬の途中にそのような状態のほうが通りがよかったのかは謎だ。(恐らく後者)


ここから本題。

セカイ系は、自分と世界がコンフリクトを起こしている。
闘う相手は、世界を崩壊させる○○であるが、
大抵は、自分の中の△△がラスボスになる。
○○は人格を持たない。世界の表象でしかなく、人間でないことが多い。

物語とは、人間と人間のコンフリクトを描くものだ。
だからセカイ系のクライマックスは、
弱い自我ともう一人の自分△△との対決になる。
△△は分裂した自分だったり、親友だったり、身内だったりする。
「世界」という概念を知る前の、初期世界に属するもの。
その決別や乗り越えることを描くのがセカイ系のテーマだ。
なんてことない、初期世界から認識する世界が広がることの暗喩である。


物語とは、コンフリクトを描くものだ。
つまらない物語はどうでもよいが、面白い物語には、必ずコンフリクトがある。
心の中の葛藤のことではなく、対立、衝突、確執、因縁などである。
(それがあれば、自然に心の中には葛藤が生まれる)
葛藤だけが存在すると、劇という三人称スタイルでは示せない。
そこで、それが目に見えるコンフリクトに置き換えられている、
と考えるのが正しい。

「警察の腐敗」を劇で描くなら、
犯人は署長で、その放逐こそ警察の浄化、とするのが劇だ。
放逐の過程、抵抗してくる署長などのバトルが本編である。
目に見えない抽象的な警察世界を、署長という具体的人間で代表するのだ。

セカイ系の劇としての問題点は、
自我と世界がコンフリクトになっていることだ。
どうしても劇にならないので、△△がラスボスになる。
そこに至るまでのお話が本編になってしまう。
△△がラスボスと判明するまでの本編は、だからなんだか劇ではないものになる。
劇とは、人間と人間のコンフリクトだからだ。


人間と人間のコンフリクトが本編になるように、
物語を書こう。
メインコンフリクトの他に、サブコンフリクトもつくろう。
サブプロットがメインプロットに影響するようにすると、
単純な対立構造を避けられる。

物語は、人間対人間であり、
人間対世界ではない。


セカイ系の限界は、劇物語になれないことだと思う。
成長中の自我をうまく切り取って、同時代の共感を得ることは多いけれども、
メジャーには永遠にならない。
それは、物語を楽しむ人には、単純に、大人もいるからである。
(ただ、大人もかつて成長中だった。だから、セカイ系の匂いは好きなのだ)

うまく人間対人間に本編を持ってくるようにすると、
セカイ系は途端に劇物語になるだろう。



まどマギをようやく見た。最新の劇場版はまだだ。
これはセカイ系に属するものだが、
セカイ系がメジャーでない海外の反応が、
これは物語ではない、と一様に言っていて面白い。
分かる、という一部がいるのも面白い。
あの話が、人間対人間になっていたら、物語足り得たかも知れない。
(魔法少女vsワルプルギス、魔法少女vsQBなどを主たる対立構造にする。
すなわち、ワルプルギスやQBの事情や動機を、魔法少女たちと同様に深く描写し、
その相容れない目的が対立するさまを描く。QBに関してはある程度描写されたが、
感情のない生命体である以上、QBがコンフリクトの対象であるべき「人間」ではなかった。
SFは世界を描くセカイ系と相性が良い。SFの限界は、世界を解き明かすことが、
人間対人間のドラマにならないところだ。すなわち、SFやセカイ系は、
狭義では、ドラマではない)
実際面白いところは、
憧れた瞬間のマミの死、さやかと京子の下り、さやかの魔女落ち、
ほむらの闘う動機など、人間対人間のドラマになっているところだし。

なんか概念的だなあ、と思っていたらまどかが「概念」になって笑ってしまった。
posted by おおおかとしひこ at 11:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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