そもそもコンフリクトが人間対人間にならないのは、
抽象的な設定で物語世界を考えているからである。
小説や論文は、それでも構わない。
小説の地の文は抽象をそのまま扱える。
「彼は偏見と闘った」と書くことが可能だが、
映画ではこうはいかない。「偏見」を具体化しなければならない。
偏見で彼を見る人を描き、
偏見を受ける彼を描き、
彼がその人達へ抗議し、反発される様を描かなければ、
「彼は偏見と闘った」場面ではない。
しかも、「彼は偏見と闘い、ついに勝利した」ならば、
彼らとの和解や謝罪まで描く必要がある。
ただその場面を並べても、感情移入出来るドラマにはならないから、
それらを劇として組み上げる必要がある。
抽象は便利である。
具体的世界から、性質や概念だけを抽出し、それだけを記号操作出来る。
小説や論文や哲学では、そのようなことだけで話を進めてもよい。
「爽やかさとは、血と汗と涙を結婚させて、その残り香から生まれる」
などと書くことが出来る。勿論、映画ではこれは表現できない。
映画は、三人称文学である。
自我と世界のコンフリクトは描けない。
具体と、具体のコンフリクトしか、描けない。
だから、人間対人間なのである。
「ツイスター」は竜巻に挑む研究者たちの物語であるが、
研究者と竜巻のコンフリクトを描いている訳ではない。
竜巻は自然現象であるから、意志や動機や事情を持たず、
人間達の何かに対して反応する訳でもない。
竜巻は、この限りにおいては、具体的現象だが、抽象概念に近い。
竜巻の精のような人物を出して、研究者たちとこの妖精のコンフリクトにするような、
ファンタジーのジャンルでもなかった。
ではこの映画では、何がコンフリクトだったかというと、
研究者とその元妻の離婚話がメインコンフリクトだったのだ。
具体的な人間と、具体的な人間のコンフリクトを描いていた。
テーゼとアンチテーゼを彼らが体現し、第三の道ジンテーゼ(再婚)へとたどり着く、
中年夫婦の物語であった。
竜巻は、彼らの仕事内容であり、二人が会う為の障害物でしかない。
主人公と相反する抽象概念がコンフリクトの場合、
その価値観を体現する登場人物を出す、
というのがセオリーである。
敵が一般的だ。
仲間でクールな奴がいて、そいつがライバルなら、熱血がテーマなのだ(スラムダンク)。
クールと熱血を代表させる具体的な人間を登場させ、
人間対人間を描き、
その主張の良しあしを、具体的な人間同士の決着で描くのである。
(流川と花道の対立は、メインコンフリクトまで上り詰めなかったが、
長期連載すれば、そこが主軸になったことは想像がつく)
偏見という抽象概念を体現させる、異なる人種のおばさんがいて、
その人が一杯のコーヒーを差しだすまでのドラマを描けば、
それが彼は偏見と闘ったことになるだろう。
本当に闘ったかどうかは、おばさんとのやりとりやはげしさや、
感情の振れ幅で決まって来るが。
映画というドラマは、人間対人間でしか、
物語を劇に出来ない。
それを覚えておくと、コンフリクトを理解出来る。
他者と他者の間に、劇がある。
2013年11月29日
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