2013年11月29日

人間対人間2

そもそもコンフリクトが人間対人間にならないのは、
抽象的な設定で物語世界を考えているからである。

小説や論文は、それでも構わない。
小説の地の文は抽象をそのまま扱える。
「彼は偏見と闘った」と書くことが可能だが、
映画ではこうはいかない。「偏見」を具体化しなければならない。

偏見で彼を見る人を描き、
偏見を受ける彼を描き、
彼がその人達へ抗議し、反発される様を描かなければ、
「彼は偏見と闘った」場面ではない。
しかも、「彼は偏見と闘い、ついに勝利した」ならば、
彼らとの和解や謝罪まで描く必要がある。
ただその場面を並べても、感情移入出来るドラマにはならないから、
それらを劇として組み上げる必要がある。

抽象は便利である。
具体的世界から、性質や概念だけを抽出し、それだけを記号操作出来る。
小説や論文や哲学では、そのようなことだけで話を進めてもよい。
「爽やかさとは、血と汗と涙を結婚させて、その残り香から生まれる」
などと書くことが出来る。勿論、映画ではこれは表現できない。

映画は、三人称文学である。
自我と世界のコンフリクトは描けない。
具体と、具体のコンフリクトしか、描けない。
だから、人間対人間なのである。

「ツイスター」は竜巻に挑む研究者たちの物語であるが、
研究者と竜巻のコンフリクトを描いている訳ではない。
竜巻は自然現象であるから、意志や動機や事情を持たず、
人間達の何かに対して反応する訳でもない。
竜巻は、この限りにおいては、具体的現象だが、抽象概念に近い。
竜巻の精のような人物を出して、研究者たちとこの妖精のコンフリクトにするような、
ファンタジーのジャンルでもなかった。

ではこの映画では、何がコンフリクトだったかというと、
研究者とその元妻の離婚話がメインコンフリクトだったのだ。
具体的な人間と、具体的な人間のコンフリクトを描いていた。
テーゼとアンチテーゼを彼らが体現し、第三の道ジンテーゼ(再婚)へとたどり着く、
中年夫婦の物語であった。
竜巻は、彼らの仕事内容であり、二人が会う為の障害物でしかない。


主人公と相反する抽象概念がコンフリクトの場合、
その価値観を体現する登場人物を出す、
というのがセオリーである。
敵が一般的だ。

仲間でクールな奴がいて、そいつがライバルなら、熱血がテーマなのだ(スラムダンク)。
クールと熱血を代表させる具体的な人間を登場させ、
人間対人間を描き、
その主張の良しあしを、具体的な人間同士の決着で描くのである。
(流川と花道の対立は、メインコンフリクトまで上り詰めなかったが、
長期連載すれば、そこが主軸になったことは想像がつく)


偏見という抽象概念を体現させる、異なる人種のおばさんがいて、
その人が一杯のコーヒーを差しだすまでのドラマを描けば、
それが彼は偏見と闘ったことになるだろう。
本当に闘ったかどうかは、おばさんとのやりとりやはげしさや、
感情の振れ幅で決まって来るが。


映画というドラマは、人間対人間でしか、
物語を劇に出来ない。
それを覚えておくと、コンフリクトを理解出来る。
他者と他者の間に、劇がある。
posted by おおおかとしひこ at 17:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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