主役のことを考えたり、
脇の人物について考えたり、
群像劇的に考えたり、個人について考えていると、
意外と忘れがちなこと。
それは、誰と誰の話になっているか、ということ。
物語のエンジンはメインコンフリクトだが、
それが、主人公と敵の話になっていない場合もある。
例えば主人公と同僚の話、になっていたりする。
それが悪い、ということを言おうとしている訳ではない。
誰と誰の間に一番会話が交わされ、
もめたり笑ったり怒ったりするかを考えてみる、
という話だ。
ドラマは、個人にではなく、人と人の間にある。
メインコンフリクトの時間軸の中で、
サブプロットの人と人の間のドラマが描かれる。
そのとき、一番強いものはどれか、
作者自信が自覚的である必要がある。
あるいは、主人公と誰の話か、を考えてもよい。
「ロッキー」は、ロッキーとエイドリアンの話であり、ロッキーとミッキーの話であり、
ロッキーとポーリーの話である。(ロッキーとアポロの話ではない)
「風魔の小次郎」は、小次郎と武蔵の話であり、小次郎と壬生の話であり、
小次郎と姫子の話であり、小次郎と竜魔の話である。
(小次郎と武蔵がちょっと弱かったのは、反省している)
恐らく、それがコンフリクトやテーマより、
描きたいものになっていると、
執筆段階としては、最終段階だと思う。
主人公とテーマとコンフリクトは背骨であるが、
主人公と誰の話か、は物語の内臓である。
最も大事な心臓や、それを助ける「主人公と他の人の話」「他の人と他の人の話」
が有機的に組合わさる。
内臓がない物語は、スカスカの話だ。
誰と誰の話か、を俯瞰して取り出してみよう。
その大小が、いびつなら、それは話としてもいびつだ。
その感覚を持とう。
2013年12月02日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック