演出論でもあると思うけど、脚本カテゴリに。
ものごとをアップ(ヨリ)で捉えるか、ヒキで捉えるか。
ある文脈の、どこからどこまでを、
どこのヨリとどこからのヒキで構成すべきか。
これはアングルと呼ばれ、
いわゆる一枚絵の構図の意味から、
物事の見方という意味でも使われる。
カット割とは、アングルの時間軸的構成だ。
脚本を書いていても、
これはヨリで見たいところや、ヒキで見たいところなどが、
文脈に応じて自然に出てくると思う。
脚本は小説ではない。具体的な絵で表現される。
全ての絵は、極端にいえば、ヒキかヨリしかない。
ミドルサイズは、ツーショットとしてのヨリ、などと考えて、
撮るべきものとの心理的距離、と考えられる。
ヨリで見たいということは、
それを近くで見たいと言うことであり、
ヒキで見たいということは、
その輪から外れた所から見たいということだ。
文脈がそれを決定する。多少の作者の個性もそれを左右する。
今ヨリなのかヒキなのかは、
その文脈がどうなっているかという自覚でもある。
普段の執筆で、ヨリとヒキを意識したことがあるだろうか。
普段の映画やドラマを見るとき、文脈とヨリとヒキの関係を意識したことがあるだろうか。
ないなら、今からでもやろう。
ヨリとヒキは、センスでもある。
順目と逆目もある。
そのセンスを磨き、監督の文脈の把握力と表現力を観察しよう。
以下、演出論。
ヨリとヒキを決めることは監督の責任であり、
最重要決定事項であるが、
レンズも決めるべきだと思う。
ロケセットなどの撮影場所の理由で、使うレンズが限られるなどの制約以外では、
レンズのミリ数を決めるのは、半分はカメラマンの仕事だが、
半分は監督の仕事でもある。
サイズのことは論を待たない。
レンズと被写体の距離のことも、ここでは話しておく。
同じヨリサイズだとしても、ワイド18ミリで撮る顔と、
望遠200ミリで撮る顔には、意味の相違がある、という話だ。
女を被写体とすると分かりやすい。
カラミはワイドで、片想いは望遠になる。
彼女をよく知らず、遠くから思うときは、レンズ位置は被写体から遠く、
彼女の肉体と絡むとき、例えばAVなどは、レンズ位置は被写体に肉迫する。
彼女の人柄やお喋りを撮るとき、標準レンズ近くになる筈だ。
被写体を何ミリで撮るかで、同サイズでも、意味が付与される。
欲望との距離感だ。
人間には、社会的な距離、パーソナルな距離がある。
文脈をコントロールするには、
レンズ位置とサイズ、すなわちミリ数で語る。
トラックアップ/トラックダウンと、
ズームアップ/ズームダウンの違いは、
欲望との距離(責任、関わり)が変化するかどうかの違いだ。
平行移動は、距離の変わらない、見方の角度が変わることだ。
フィックス以外でも、距離とレンズは、欲望の距離を示す。
案外、分かってない人が多くて時々いやになる。
僕は14、18、25、35、50、75、100、150、200あたりで
世界を捉えていることが多い。
ズームが多くなって、単玉のミリ数で悩むことがなくなって寂しい。
「風魔の小次郎」最終回、武蔵のサイキックを断ち、
「俺に一般社会に戻れと?…」の武蔵のヨリのあと、
振り向いた小次郎が気絶し、姫子と蘭子に支えられるカットの話。
最初、カメラマンの菊地さんは得意のワイドで撮ろうとしていた。
小次郎という人間、姫子蘭子との関係の、輪の中に入るという心理的距離だ。
僕は、逆で、このカットを望遠で撮るべだと思った。
「それは武蔵から見た三人、という意味になるけどいいか」と
菊地さんに問われて、武蔵の見た距離ではないと思いつつ、
とっさに上手く言葉に出来なくて、それでも望遠を選んだ。
今なら答えが言葉になっている。
あれは、我々視聴者と小次郎の距離なのだ。
全ての闘いが終わって、ゆっくり女の腕に抱かれて眠って欲しいという思いと、
もう小次郎には会えないんだろうなあ、と予感する、
我々と小次郎の距離だったのだ。
あの時三人の輪の中に入るべきでないと思ったのは、
僕の小次郎への別れの気持ちだったのだ。
あのカットをワイドで撮っていれば、
話はまだ続く、というニュアンスになっただろう。
菊地さんはこのカットが重要なカットであることを分かっていたから、
その場では武蔵の見た距離?と疑問に思いつつ(笑)も、
レンズ(距離)は監督が決めるべきだ、と言ってくれた。
小次郎の気絶と支えられること以上の意味を、見いだすべき、
という僕の主張を理解してくれたのだと思う。
実際、小次郎が姫子にキスして去るラスト、
姫子から見た小次郎の後ろ姿は、
菊地さんも僕も、望遠で撮ることに何の議論もしなかった。
もう届かない距離を、表現するためだ。
2013年12月02日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック