2013年12月03日

何ベースの話か

映画を一本も見たことなかったり、
人生を生きていない人には、
脚本は書けない。
脚本には、必ずベースになる体験がある。

最近の漫画やアニメは、
漫画やアニメを見た人が書いている、とよく言われる。
70年代や80年代までは、
自分の人生経験を漫画やアニメに変換していた。
創作というのは、本来そのようなものだ。
ところが、子供の頃から漫画やアニメで育つと、
漫画やアニメをベースに、
漫画やアニメを書くようになる。

子供の頃に体験した夏休みがベースではなく、
宮崎映画の中での夏休みがベースになってしまう。
両者が作者の中で区別されていればまだましだが、
2000年代以降は、漫画やアニメの寄せ集め劣化コピー漫画アニメが、
増えたような気がする。
糸井重里は、経験という一次情報の実体を伴った感覚から、
実体のないn次情報を一次情報にしているのが今の時代だと言っている。
それは、創作にはよろしくないことのような気が、なんとなくしている。

映画や小説は、まだ経験ベースのような気がするが、
何かのオマージュとかパロディとかいい始めたら危険である。

あなたは誰かが傾聴すべき人生経験をしているだろうか。
凄い経験を極端に求めれば、ルポライターやドキュメント作家になるだろう。
それをそのまま書いても、映画にはならない。
煮詰めて抽出された、人生とはこういうものかも知れない、
というほのかな思いが物語に付与されるとき、
プロットは、映画になりえる。

映画を沢山見ることは、基本的勉強だ。
取材を沢山するのも基本的勉強だ。
似たジャンルを見ておくのも基本的勉強だ。
だが、新作を書くときには、
それと、自分の人生経験とを、うまく煮込まねばならない。
感覚、のような曖昧なところの話だけど。

ここは何ベースで書いているか、
作者なら材料の配合が分かるだろう。
人生経験ベースオンリーでなく、
想像ベースオンリーでもなく、
取材リアルベースオンリーでもなく、
今までの作品ベースオンリーでもない、
何か新しいものが出来たら、それがオリジナルということだ。
そこまで煮込むには、時間が必要だ。

書くときには、取材メモを引き出しに入れて鍵をかけろ、
とよく言われる。
僕はかきはじめたら映画や漫画やアニメは見ない。影響されるから。

なに味の煮込みか、書く前から感覚が出来上がっていて、
なおかつそれが最後まで貫かれているのが理想的だ。
大抵書きながら混ざっていく。
リライトは白紙に一から書け、と僕が言うのも、
煮込まれた感覚を、一定させる方法論だと思う。
生煮えか煮込み過ぎかは、経験と勘かも知れない。

全くのリアルでもなく、全くの妄想でもなく、
普通考えたらなさそうなのに、いかにもありそう、というのが、
創作というものだ。
posted by おおおかとしひこ at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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