映画を一本も見たことなかったり、
人生を生きていない人には、
脚本は書けない。
脚本には、必ずベースになる体験がある。
最近の漫画やアニメは、
漫画やアニメを見た人が書いている、とよく言われる。
70年代や80年代までは、
自分の人生経験を漫画やアニメに変換していた。
創作というのは、本来そのようなものだ。
ところが、子供の頃から漫画やアニメで育つと、
漫画やアニメをベースに、
漫画やアニメを書くようになる。
子供の頃に体験した夏休みがベースではなく、
宮崎映画の中での夏休みがベースになってしまう。
両者が作者の中で区別されていればまだましだが、
2000年代以降は、漫画やアニメの寄せ集め劣化コピー漫画アニメが、
増えたような気がする。
糸井重里は、経験という一次情報の実体を伴った感覚から、
実体のないn次情報を一次情報にしているのが今の時代だと言っている。
それは、創作にはよろしくないことのような気が、なんとなくしている。
映画や小説は、まだ経験ベースのような気がするが、
何かのオマージュとかパロディとかいい始めたら危険である。
あなたは誰かが傾聴すべき人生経験をしているだろうか。
凄い経験を極端に求めれば、ルポライターやドキュメント作家になるだろう。
それをそのまま書いても、映画にはならない。
煮詰めて抽出された、人生とはこういうものかも知れない、
というほのかな思いが物語に付与されるとき、
プロットは、映画になりえる。
映画を沢山見ることは、基本的勉強だ。
取材を沢山するのも基本的勉強だ。
似たジャンルを見ておくのも基本的勉強だ。
だが、新作を書くときには、
それと、自分の人生経験とを、うまく煮込まねばならない。
感覚、のような曖昧なところの話だけど。
ここは何ベースで書いているか、
作者なら材料の配合が分かるだろう。
人生経験ベースオンリーでなく、
想像ベースオンリーでもなく、
取材リアルベースオンリーでもなく、
今までの作品ベースオンリーでもない、
何か新しいものが出来たら、それがオリジナルということだ。
そこまで煮込むには、時間が必要だ。
書くときには、取材メモを引き出しに入れて鍵をかけろ、
とよく言われる。
僕はかきはじめたら映画や漫画やアニメは見ない。影響されるから。
なに味の煮込みか、書く前から感覚が出来上がっていて、
なおかつそれが最後まで貫かれているのが理想的だ。
大抵書きながら混ざっていく。
リライトは白紙に一から書け、と僕が言うのも、
煮込まれた感覚を、一定させる方法論だと思う。
生煮えか煮込み過ぎかは、経験と勘かも知れない。
全くのリアルでもなく、全くの妄想でもなく、
普通考えたらなさそうなのに、いかにもありそう、というのが、
創作というものだ。
2013年12月03日
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