理論的なことと言うより、テクニック的なことだが、
伏線は、人物、道具、要素の初出に仕込むと自然になる。
あからさまな伏線は、興ざめになる。
伏線は、それと気づかれては意味がない。
かと言って、さりげなくされてはその伏線を忘れてしまう。
ある程度のインパクトがないと、
そういうことだったっけ、と疑問符がついて、
伏線回収の妙味がなくなってしまう。
インパクトと言う面では、人物の初登場である。
ここのエピソードに絡むことで既に伏線が張られていると、
なるほどな、と納得しやすい。
第一、伏線は、張るものではない。
張り巡らされた罠のような言い方をするから、難しく考えてしまう。
これは、見る側からの言葉であり、書く側の行為ではない。
伏線は、前にあったことを、その時とは違う文脈で再利用すること、
と考えたほうが、書く側にとっては余程エキサイティングだ。
同じ要素を複数回使う、お笑いでいう天丼と性質は同じだ。
同じ文脈で使えば天丼、違う文脈で使えば伏線の解消となるだけだ。
ブックエンドテクニックというものが、
ハリウッド映画にはある。
トップシーンとラストシーンを対にする、ということだ。
(それらが、両脇から本編を挟むというイメージ)
大抵同じ場所で、似たようなシチュエーションになる。
そこでの主人公の変化が、映画全体を通じた成長だった、
ということを示唆しやすい。
「スタンドバイミー」は、二重のブックエンドである。
外側のブックエンドは、小説家になった男の現在だ。
新聞でアイツの死を知る冒頭部と、彼についての小説を書き終えたラストが対になる。
本当の友達は、あれ以上いないと締め括る名ラストだ。
回想の本編を受けて、彼と自分の人生の意味が定着する。
回想の本編もブックエンドである。
冒頭部の出発した町に、ラストに旅を終えた主人公たちが帰ってきたとき、
町自体は何も変わらないのに、町が小さく見えた、と主人公は言う。
それは、成長以外のなにものでもない。
ブックエンドは、テーマと関連させやすい。
物語のはじまりの地に舞台が戻ってくれば、
いよいよ結論が語られる、という予測は誰にでもつく。
「青い鳥」も典型的なブックエンドだ。
冒険の本編よりも、ラストだけがとりわけ強烈なのは、
ブックエンドによるものだ。
この原理を、伏線に生かせばよい。
主人公以外のことで、人物、物、要素の初出のことを、
それが重要な働きをするシーンで天丼的に使えば、
それが自然とブックエンドの関係になる、
という寸法だ。
だから初出は重要なのだ。
ACT 1は、あらゆる要素の初出の連続である。
また、ACT 2の前半戦、風呂敷を広げるところも初出部分が多い。
新キャラ、新舞台、新小道具など、
伏線は、そこに仕込まれる。
前半部分の脚本を書くのが難しいのは、
第一稿時は何が伏線になるか分からない所であり、
リライト時は、伏線とそれ以外のノイズの区別や、その取捨選択による矛盾解消の点にある。
迷ったら、伏線は初出に仕込む、という原則を試してみることをオススメする。
2013年12月03日
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