2013年12月03日

伏線は、初出に仕込む

理論的なことと言うより、テクニック的なことだが、
伏線は、人物、道具、要素の初出に仕込むと自然になる。

あからさまな伏線は、興ざめになる。
伏線は、それと気づかれては意味がない。
かと言って、さりげなくされてはその伏線を忘れてしまう。
ある程度のインパクトがないと、
そういうことだったっけ、と疑問符がついて、
伏線回収の妙味がなくなってしまう。

インパクトと言う面では、人物の初登場である。
ここのエピソードに絡むことで既に伏線が張られていると、
なるほどな、と納得しやすい。

第一、伏線は、張るものではない。
張り巡らされた罠のような言い方をするから、難しく考えてしまう。
これは、見る側からの言葉であり、書く側の行為ではない。

伏線は、前にあったことを、その時とは違う文脈で再利用すること、
と考えたほうが、書く側にとっては余程エキサイティングだ。
同じ要素を複数回使う、お笑いでいう天丼と性質は同じだ。
同じ文脈で使えば天丼、違う文脈で使えば伏線の解消となるだけだ。


ブックエンドテクニックというものが、
ハリウッド映画にはある。
トップシーンとラストシーンを対にする、ということだ。
(それらが、両脇から本編を挟むというイメージ)
大抵同じ場所で、似たようなシチュエーションになる。
そこでの主人公の変化が、映画全体を通じた成長だった、
ということを示唆しやすい。

「スタンドバイミー」は、二重のブックエンドである。
外側のブックエンドは、小説家になった男の現在だ。
新聞でアイツの死を知る冒頭部と、彼についての小説を書き終えたラストが対になる。
本当の友達は、あれ以上いないと締め括る名ラストだ。
回想の本編を受けて、彼と自分の人生の意味が定着する。

回想の本編もブックエンドである。
冒頭部の出発した町に、ラストに旅を終えた主人公たちが帰ってきたとき、
町自体は何も変わらないのに、町が小さく見えた、と主人公は言う。
それは、成長以外のなにものでもない。

ブックエンドは、テーマと関連させやすい。
物語のはじまりの地に舞台が戻ってくれば、
いよいよ結論が語られる、という予測は誰にでもつく。
「青い鳥」も典型的なブックエンドだ。
冒険の本編よりも、ラストだけがとりわけ強烈なのは、
ブックエンドによるものだ。


この原理を、伏線に生かせばよい。
主人公以外のことで、人物、物、要素の初出のことを、
それが重要な働きをするシーンで天丼的に使えば、
それが自然とブックエンドの関係になる、
という寸法だ。

だから初出は重要なのだ。
ACT 1は、あらゆる要素の初出の連続である。
また、ACT 2の前半戦、風呂敷を広げるところも初出部分が多い。
新キャラ、新舞台、新小道具など、
伏線は、そこに仕込まれる。

前半部分の脚本を書くのが難しいのは、
第一稿時は何が伏線になるか分からない所であり、
リライト時は、伏線とそれ以外のノイズの区別や、その取捨選択による矛盾解消の点にある。

迷ったら、伏線は初出に仕込む、という原則を試してみることをオススメする。
posted by おおおかとしひこ at 20:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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