(12/25注:尺とは、映像の長さのこと。110分とか、15秒とか)
お話の規模が、尺に関係する。
この規模というのは、
宇宙とか四畳半とかの空間的広さや、
48時間とか数万年の、時間の規模でもない。
我々の「頭の中に占める、大きさ」のことだ。
慣れてくると分かるが、
30分には30分にふさわしい話、
2時間には2時間にふさわしい話、
5分には5分にふさわしい話がある。
CMの世界でも、15秒メインの企画と30秒メインの企画は、
話の規模が違う。
その尺にふさわしい規模の話が、その尺で一番気持ちよい。
2時間で語るには小さな規模の話を2時間でやると、
小さく、物足りない、だらだらした話に見える。
逆に大きな規模だと、
描き足りないとか、詰め込みすぎ、食い足りなく見える。
例えば「恋の渦」は、2時間半で扱うには規模が小さい。
だから、物足りなかった。
濃い味の素のような、テイストやフレーバーはあるが、
中身の薄い作品だった。
「ガッチャマン」は、設定だけは2時間で扱うには壮大で、
人間ドラマは2時間で扱うには小規模で物足りなかった。
「ハナミズキ」は、場所のスケールは映画的な規模だったが、
話のスケールは60分程度のものだった。
ウッディアレン映画は殆どは90分前後だが、
2時間で扱うには小規模な話を、90分という絶妙な尺でいつも描く。
「スタンドバイミー」は90分ないと知って驚いた記憶がある。
背景、舞台、事件、関わる人物の数、その内面や人間関係、勢力分布、
コンフリクトやテーマの規模、展開の規模が、規模の基準だ。
それらを、リアルに、丁寧に、過不足なく描くのにかかる尺が、
話の尺である。
2時間で扱うには丁度いいものを、選ぶようにしよう。
逆に、2時間では描けるものには、それなりに限界がある、
ということでもある。
丁度良い映画は、その大きさに話の規模を整えているのだ。
慣れない人は、大きすぎたり小さすぎたりする。
大きいと3時間ごえの大作になったり、
小さいと60分や45分の小品になってしまう。
書き終えたものを切ったり伸ばしたりして2時間にするのは、
実はかなり難しい。
だから、最初から2時間にふさわしい規模の話を思い付くのが正解である。
今だから言えるが、
一瞬だけ、「風魔の小次郎」の劇場版の話が出たことがある。
六本木一館公開で、2時間のテレビ再編集版、追加撮影なし、
という条件だった。(やっぱ金がないねえ…)
13話ものナイスエピソードを、4話分の尺に切り詰めることは、
僕には想像もつかず、無理だと言った覚えがある。
まあ無理だよねえ、と流れてしまったのが、今となってはちょっと惜しい。
だけど、小次郎登場と武蔵との決戦と、告白と、麗羅と陽炎と壬生で、
それだけで2時間ごえは明白だろう。
(さらに双子の話、霧風、劉鵬の話はどれも切れないよ…)
つまり、あの13話は、2時間で扱うには大きな規模の物語なのだ。
複雑さ、理解することの多さ、ストーリーの段取りの多さ、などが、
大きな規模なのだ。小さな規模は、その逆だ。
風魔の舞台は二つの学園とその他という、空間的にはごく狭い規模だ。
空間的規模は話の規模と比例しない。
ひとつの場所で2時間をやる映画もあるし、
数万年の進化と木星軌道まで空間を持つ「2001年宇宙の旅」もある。
前者は、濃密な人間関係が話の規模になり、
後者は、空間的にはスカスカの密度になるが、その空間的規模を把握しているだけで楽しい。
ロードムービーは「駅馬車」以来の特殊なジャンルで、
空間的に広い旅をしながらも、焦点は車の中の狭い密室的人間関係になる。
(2001年でも、後半HAL対ボウマン船長の密室劇になる)
あなたの物語は、どれくらいの尺が適切か、考えたことはあるだろうか。
車巾感覚というか、車庫入れ感覚というか、そのような感覚を持てるのが理想だ。
多くの原作つき映画が、内容的に上手くいかないのは、
原作の話の規模を、2時間の話の規模に、上手くつくり変えられないからである。
2時間にすっと入るように上手く調整できるかどうかは、
書く前の車巾感覚で考えるしかないからだ。
(書いてからあれこれやると、大抵ダメになる。
そしてそのようなダメ脚本が、乱発されている)
2013年12月07日
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