有名なケンブリッジ大学の実験で、
人間は、「単語の最初と最後の文字さえあっていれば、
途中の文字が入れ替わったとしても、正しい単語として認識する」
というのがある。
(こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。
からはじまる有名なコピペ)
これは、僕が感じている、物語の構造に似ていると思った。
ブックエンドテクニックの話、
伏線は初出に仕込む話(初出の伏線が、活躍する時に使われれば、
そのテーマを暗示する)、
物語はACT 1と3にオリジナリティーがあり、
ACT 2はどうとでもなる話、
最初停止した状況から動きとしてドラマが始まり、
ラストシーンで動きが止まり静止画として記憶されること、
なにやら全て同じことに帰着していると思う。
台詞は、頭と尻さえちゃんと言えれば、間は割りとどうでもいい、
という役者の間でのセオリーもある。
話の上手い人は、ツカミとオチが上手い。
間の巧みさは、記憶に残らないというより、
そもそも認識さえされていないのではないか?
とすら思ってしまう。
ケンブリッジの実験では、
単語の最初と最後がしっかり合っていれば、
文章が読める、というのが結果だから、
要所要所の頭と尻さえ合っていれば、物語は流れる、
ということを示唆するのではないか。
その要所要所とは、
数分から十分程度おきにくるターニングポイントであり、
初出の伏線と解消のブックエンドであり、
各ストーリーラインの段取りであり、
台詞の頭と尻であろう。
人間の脳は、
時系列的におかしくても、時系列で矛盾が生じないような認識を、
頭のなかで勝手に組み直す性質がある。
だから、一見矛盾のないようにミスリードされたものが、
どんでん返しでひっくり返ることに快感を覚えるのではないか。
これは、発端、途中、帰結というみっつの段階で、
発端と帰結をきちんとすれば、
途中は多少矛盾があっても、論理の糸を勝手に通してくれる、
ということだ。
そんな映画が山ほどあるのは経験で知っている。
そのACT 2でなければならない、合理的な理由もない、
という強引な見方も出来る。
僕はいつもACT 2で色々悩み、
この展開でいいのか、いつも確信が持てない。
ベストの選択が何か、理論的なことが分からないままでいる。
が、このことを極端に解釈すれば、
間は(要素があっていれば)どうでもいい、
ということになる。
ACT 2の構成に迷ったら、この極論で心を楽にするといいかも知れない。
勢いがあって面白く(あるいは粛々とした進行のなかに力強いものがあって面白く)、
最終的に矛盾がなければよいだけで、
「唯一の」正解は、ない。ある種の自由演技でよいと考えよう。
ただリライトを繰り返すことで、
話の規模が変わってきたり、
ターニングポイントのリズムが変わったりすることには注意されたい。
2013年12月07日
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