映画にとって、物語のエンジンは、動機である。
そして、異なるまたは競合する、複数の動機や立場があるとき、
コンフリクト(対立、確執、戦争)が生まれる。
これを、一人将棋に例えてみる。
僕は将棋には詳しくないので、
一人二役で一人将棋をするのが、どれくらいメジャーかは分からない。
(棋譜を見ながら研究するのは聞いたことがあるが、
戯れに一人二役をやるのだろうか、分からない)
脚本家が、コンフリクトを考え、ストーリー展開を考えることは、
ほぼ一人将棋のようなものだ。
人間は、思考がある。
状況を把握し、動機に従って具体的目的を果たすため、行動する。
馬鹿ではないから、その成功の可能性、失敗の可能性、予測、
失敗の確率を減らす要素、協力者との政治的な駆け引き、
損得の取引、騙し討ち、裏切る合理性、
などは、一通り持ち合わせている。
(アメリカのアクション映画は、あまり持ち合わせていない馬鹿ばかりだが)
そして、それは、コンフリクトの相手も同等に持っている。
だから、主人公と相手は、ある意味将棋を指すのだ。
作戦を練り、相手の裏をかき、裏をかかれないように考え、
二段構え三段構えの準備をし、間接的攻撃もし、直接接触のリスクを避け、
偶然のチャンスに賭け、強気にも弱気にもなる。
別の原理を持って対局する二人を、
脚本家は、一人で書く。
だから一人将棋にたとえてみた。
刑事と犯人、政治家と検察、検事と弁護士などのようなドラマではとくにそうだ。
恋のライバルや、ヒーローと悪、財宝を巡る冒険家とナチス、
などの軟らかいドラマでもそれは同じだ。
二人のコンフリクトだと2時間の規模には小さいから、
更に複数のプレイヤー間の将棋を考えなければならない。
拮抗した状況、動くきっかけなどから、展開から、結末に至るまで、
自動的に話が進まないならば、そこには対局する必要のある、
コンフリクトがあるだろう。
そのサブストーリーラインとメインストーリーラインは、
あるターニングポイントが別のラインのターニングポイントになったりする。
隣の対局で、こちらの局面に影響があり、それが状況打開のきっかけになる、
というイメージだ。
脚本家は、これを一人で、矛盾なく、面白く、深い余韻を与えるように、
創作する必要がある。
リアルな一人将棋と、脚本におけるこの何人もの役を演じる対局と、
どっちが難しく大変かは分からない。
ただ、将棋にはルールがあるが、人生はノールールだってことだ。
将棋は勝てばなんでもよいが、人生は勝ち方も重要だ。
そして映画は、人生を描く娯楽芸術である。
2013年12月07日
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