2013年12月07日

対立と対比と同意と相違

語呂合わせのように書いてみたが、
殆どの物語の進行は、
これを描くのに終始する。

展開とかターニングポイントとか焦点とかは、
より上位の概念で、
もっとも下位の概念は、リアリティーや感情や文脈や物語の手触りだ。
中くらいの概念に、
対比や対立構造、対称性がある。

対比するときは、
なるべく大きく違うようにする。
意味、立場、見た目のビジュアル、アクションの方向性、
何もかも違うように。なるべく意味的距離を離す。
同時に、同じところはどこかも考える。
同じところと違うところが、物語の原動力のひとつである。

モンタージュという編集でも同じだ。
カットとカットの繋ぎは、
対比対立なのか、同意反復なのかで、繋ぐ意図が変わってくる。
目線の方向、アイレベル、体の向き、感情、
背景の同一性と対比性などで、
文脈をコントロールすることが、カットを繋ぐという行為だ。
そして、そもそもの対立や対比や同意や相違という意味が、
物語に内臓されていないのなら、
そのようなモンタージュをしても意味がない。
せいぜい、詰まらない物語をトリック風に味付けし続ける
堤幸彦のように、テクニックオシャレに走るしかなくなる。


リアリティーや感情や手触りといった部分に、
最も気を使いながら、
対比的同意的関係を描きつつ、
それらが構造的にストーリーラインを構築し、
焦点へ誘導し、ターニングポイントが配置されて焦点がかわり、
伏線が張られていて、
テーマ性がしっかりしていて、斬新なものが、
理想的な脚本である。

そんなの無理?いいや、ひとつひとつ積み上げれば、難しいことではない。
事実、それをなし得ている脚本は、名作と呼ばれ沢山あるではないか。
posted by おおおかとしひこ at 17:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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