2013年12月08日

全員を、会わせない

大体、殆どの揉め事は、当事者全員を一堂に会わせて、
言いたいことを正直にぶつければ、大抵解決の方向が見える。
何が問題なのか、正確に全てを、全員が把握して、
嘘偽りなく自分の都合と集団の利益を考えれば、
結論はひとつに収束する。

だから、お話をつくるには、その逆をすればよい。
コツは、全員を会わせないことなのだ。


会えない恋人は、ドラマになる。
(西野カナは、たったそれだけで仕事をしているとネットで揶揄される)
会えないだけでなく、結ばれてはならない、というだけでもドラマになる。

この場にいない人のことを慮った故の決定が、
のちに致命傷となることは、ドラマでも現実でもよくある。

主人公とライバルは、なかなか試合であいまみえないことが、
最終バトルへの期待を高めていく。

姿を見せない狡猾な敵の、行動や原理を推理する。
身柄の確保そのものが行動の焦点になる。

面会を断られ、どうやったら会ってくれるかの工夫がストーリーラインになる。

正体不明だからこそ、それを探る。

離れ離れになっても、全く同じことを考えていて、約束を果すように行動。

敵側へ寝返ったのは、誰にも言えない理由があった。

会ったとしても、腹に一物を抱えて、全てのカードをオープンにしない。

みんなにばれないように、二人だけの秘密にする。


などなど、会って話せないことが、ドラマの原動力になる例は沢山ある。


全員を会わせない。
つまり、登場人物を、いかにセグメント化、ブロック分けして、
情報を共有させないことが、ドラマになるのだ。

通信の発達で、一見それは解消した気になるが、
現実の会社で飛び交う情報共有メールよりも、会って話したほうが百倍話が早く進むことは、
仕事をしていれば分かることだ。全員が会って話すことは、それくらい人間にとって重要だ。
(いま広告業界では、何段階もの情報共有のズレがあり、
それが内容のクオリティに直接影響している。デジタル時代で締め切りだけが早くなり、
メールだけで直接会わない機会が増え、直接会って事情を確認しあうことが軽視されている。
直接会えば出るかも知れない新しいアイデアを、出す場所がない)

別れ話をメールだけでやる若い人も増えたが、
それは辛いことや面倒から逃げている心理だ。
直接会って味わう修羅場や感情の揺れや、泥沼こそが人間を成長させるのに。

会えないことによるドラマでひっぱり、会ってからの泥沼で、
解決(平定)へ向かう、という二段組が、物語にするコツだ。

会ってからの修羅場は、ドラマで言えばワンシーンだが、
会えないからこそのドラマは、何シーンも引っ張れる。
友達に相談したり、こっそり会いに行こうとするなどの膨らましも可能だ。


直接会うと、修羅場や泥沼になる。
が、人間は雨が降れば地を固められる生き物だから、
一堂に会せば、実はワンシーンで平定するのだ。
(そのワンシーンを描いたのが、「11人の怒れる男」、
それをコメディに翻案した「12人の優しい日本人」という実験劇だ)
そのワンシーンこそが、映画ではクライマックスになる。
(だから、大団円は、全員が揃う)
勿論、完全決裂後、全面戦争というドラマもありえる。
会うことには、そのようなリスクとリターンがある。

そこまでに、どう話をひっぱるかは、
上手いことやって「会わせない」ことである。
偶然、本人の意志、他人の都合優先、特殊な事情、会おうとも思ってないなど、
世の中に会えない理由は沢山ある。
それを障害と考えれば、乗り越えることが焦点になる。
(会いに行くことが、ひとつのストーリーラインになる)

誰と誰が会ってなくて、誰の何を知っていて、知らないか、
このいびつをつくることが、「全員が一堂に会してすべての情報を知る」ことの反対側だ。

そこに、ストーリーテラーの腕を奮おう。
そのように、陣営を編成するのだ。
会えない時間が愛を育てるのだとしたら、
会えないことで何が起こるかが、ドラマなのである。
posted by おおおかとしひこ at 15:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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