2013年12月11日

見たい話、見たくない話、売れる話、売れない話

とかくプロデューサーからは、「売れる話」を求められる。
が、売れるとか売れないとかは、勘でしかない。
売れたものに似せたものは、売れる可能性があるが、既に古ければ売れない。
既に売れた原作の映像化は、売れる保証など実はなにひとつない。
(面白そうと思えれば客は来るが、今、失敗し続ける実写化の流れから、
本当に面白いかどうか、皆慎重になっているはずだ。そして、面白さを、求めているのだ)
一方、知名度がないという理由で、勇気のないプロデューサー達からは、
いくら面白く深い話でも「売れない」と一刀両断されがちである。

では、「売れる」ために、脚本家は何を考えればいいのだろう。
僕は、見たい話か、見たくない話かで考えるとよいと思う。

売れる/売れないという議論は、
市場価値の話である。
今の市場にないオリジナル商品を問うのだから、
現状の市場をいくら分析しても、未来に売れるものは、予測の範囲でしかない。
売れるかどうかの確信は、結局勘に頼らざるを得ない。
(そして、そのような目利きは、随分減っていると思う)

映画は、結局面白いか面白くないかである。
売れるのは面白いからであり、面白くないものは売れない。

売れてるが面白くないものは、詐欺と呼ばれる。
面白いのに売れないのは、商売が下手にすぎない。
商売の上手下手は、配給の力なので、脚本家個人が左右出来る要素はない。
配給が下手な故に、すごく面白かったのにヒットしなかった命運を背負わされた映画は数多い。
ヒットしなかったから、という理由で後世から、ものを見る目のない人から駄作扱いされてしまう。
(たとえば、「キックアス」は傑作であるが、配給はひどかった。
東京の興行は2館上映で、うち一館はDVD上映という酷さ!
レンタル展開も酷く、パッケージデザインも内容の良さが想像出来ないむごさ)


とするならば、
我々が出来ることは、面白い話を思いつくことである。
この「面白さ」という基準は、実にあいまいだ。
これまでどれくらい面白いものを見て来たか、という経験に左右されるし、
(他にもっと良いものを見ていたらダメ扱いされるし、
レベルの低い幼い客には、ちょっとしたものでバカ受けすることもある)

だから、「面白い」という基準を、
「見たい」話かどうか、という基準に変えてみるとよいのではないか。

自分が見たい話であるか、というのがまずは根本の基準だ。
見たくもない話を書いて、こういうことでしょ?という映画ほど辛いものはない。
(例:30すぎのOLに、イケメンが恋をする、コメディでハートフルなストーリー。
脚本家が本気で書かない限り、適当にワンセットそろえたダメ脚本になるのは見えている)
自分が本気で見たいものを、まずは第一目標とする。

次に、「みんなが見たいか」どうかを考える。
この「みんな」像をどのへんに据えるかが、脚本家のバランス感覚である。
コアな人達も、普通の人たちも、オタクでマニアックな人達も、浮動票の人たちも、
おっ、と思い、見たいと思う話が、理想だ。

脚本家本人だけが見たい話では意味がない。
みんなが見せられて、見たくなかった、と思う話では意味がない。
これは題材に媚びろ、ということではない。

たとえば震災に関する物語は、見たくない題材ではあるかもしれないが、
そこからの復興を描くような、力強いリアリティある話が書ければ、
それは「一瞬目をそらすような見たくない話だが、実は本当に見たい話」であるはずだ。

「30のOLの願望を満たす話」は、一瞬見たい話だが、
出来の悪い、通り一遍のものならば、見たくない話になる。
「科学忍者隊ガッチャマン」の実写化は、ほんとうに出来ていれば皆が見たい話だが、
どうも出来がよくないのなら、それは見たくない話になる。


見たいかどうかは、
一行のコンセプトや、ワンビジュアル、ペラ一枚の内容紹介での引きの強さでまず測られる。

それで引きつけられれば、あとはストーリーだ。

そのストーリーでも、「みんなが見たい場面」を意識しておくことは重要だ。
たとえばハッピーエンドは、みんなが見たい結末だから、
それを裏切ることは相当なハードルの高さがある。
リアルな人生を見せるという引きつけがあるならば、
ビターエンドやバッドエンドは、見ざるを得ない結末になることもある。
(逆に嘘くさいハッピーエンドなら、それこそ見たくない結末だろう)

カッコイイ必殺技、面白い世界観、直接対決の高揚、ハラハラした大逆転劇、
うっとりするようなラブシーン、ひりひりするようなアクション劇は、
誰もが見たい場面のひとつだ。

それが必ずしも入っている必要はないが、
それが入ることを期待されている時に、入らないのは気持ち悪い残尿感が残る。

それが入ることを期待されるかは、なにで引きつけるかで決まる。
そう引きつけられたのだから、○○を期待する、というのは、客としては当然だ。
それを見たいから、見世物を見に来るのである。

つまり、引きつけるための、ログライン、ワンビジュアル、コンセプトなどに、
すでに「見たい」ベクトルが内蔵されているのである。


売れる/売れないは、今の市場の判断でしかない。
もっと普遍的な、見たい/見たくないという根本的な部分で、
脚本/企画を見るべき、つくるべきだ。
それを売れるように、うまく誘導すれば、最終的に売れるのだ。
今の企画現場では、売れる/売れないの話で埋め尽くされ、
見たい/見たくないという、そもそもの内容の根本の話が、ごっそり抜けおちている。


今のCMの現場は、特にその傾向が強い。
スポンサーの商品情報の詳細なんて、
テレビを楽しみに見ている人からすれば、最も見たくない話のはずだ。
(あえて言えば、CMが入るのは我慢しているだけだ)
その常識を忘れ、アピールしたい情報ばかり羅列するのは愚の骨頂である。

どうして、「みんなが見たいCM」について議論しないのだろう。
面白いストーリーで引きつけられたり、
なんのことか分らなかったけどオチが来て、なるほどうまいな、という話だったり、
夢中で見つめるものがいい筈なのに。
その夢中になる要素とは、決してお得な商品情報ではない。
商品情報は、既に興味のある人しか見たいものではない。
ほとんどの人は見たくないものだ。
見たいCMとは、なるべく商品情報の入っていない、素敵なフィルムだ。
素敵な世界を見られるから、「苦しゅうない、キミの言いたいことをちょっとは言ってもよいぞ」
となる。
自分が視聴者なら、そうやって行動している筈なのに。
いざ提供する側に回ると、急に判断がおかしくなるのは素人だ。

CMだろうと映画だろうと、原則は同じだと思う。
売らんかなのものには、人は乗っかってこない。
みんなが見たいもの(それはたいてい面白そうなヒキがあり、
見て面白く、見終わって満足する)が、結果的に一番売れるものの筈である。
posted by おおおかとしひこ at 21:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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