昭和40年代ぐらいの議論だが、
オバQの初アニメ化のとき、
「四畳半のような庶民の汚いものを、公共の電波に乗せてよいのか?
もっと豪華な洋館の応接間のような家を舞台にするべきでは?」
という議論が本気であったらしい。
このエピソードは、「他人に見せるとはどういうことか」
にまつわる、日本人の問題点を指摘する。
昔、古い味のある蕎麦屋さんでロケをしたとき、
下見の段階で、前掛けをかけた仕事中の御主人が、味のあるいい感じだったので、
ロケ隊が来るときにちらりとご出演願えないか、と頼んだことがある。
ロケ当日、出てきた御主人は、スーツを着て、美容院で整えた髪型だった。
普段の蕎麦屋のおっちゃんがよかったのに、
御主人は「よそいき」の姿でカメラの前に現れたのだ。
授業参観で、昔母親がスーツ的なものを着て、物凄い厚化粧して、
デカイ光り物をつけてきて、周囲の母親も似たような競いあいをしていた。
どの例も、
よそいきと、普段のリアルとのギャップの話だ。
人が人を、どう応接するべきか、
という話かも知れない。
僕の人間性もあるかも知れないが、
ホテルや服屋のコンシェルジュ的な人が、
かしこまってきちんとしているのは、嫌いだ。
僕は誰でもない機能としてのコンシェルジュとは話したくない。
その人の人間性と話がしたい。
スーツ姿の営業も嫌いである。
スーツを着ることは、中身の人間をいったん捨てて、
外側だけの会社代表になることだからだ。
そんなことより、お前はどう思っているんだい、
そんな本音を聞きたい。
オバQが汚い庶民の四畳半でドタバタするのは、
この世界の地続きの庶民のドラマだからだ。
嘘偽りのない、我々庶民の世界を描くからだ。
これが金持ちの洋館のかしこまったところや、
前掛けでなくスーツを着たり、美容院に毎回行っている髪型では、
我々と地続きではなくなる。
エンターテイメントの世界では、
古典的にはよそいきがもてはやされてきた。
姫や、王宮や、貴族に、価値があり、
我々庶民には価値がないという、原始的な価値観である。
テレビはそのような価値あるものを流すべきだ、
というのが、昭和40年代の価値観であったのだ。
いまだに、テレビCMの世界では、
この価値観がふと顔を出すことがある。
企業の活動であるから、きちんとスーツを着て、
後ろ指さされない、ホテルのコンシェルジュのような他人行儀の、
よそいきでなければならないのではないか、という強迫観念だ。
果たしてそれは、唯一の正解だろうか。
我々庶民は、そんなものを見たら、
オバQが豪奢な宮殿で行われるドラマのような、
蕎麦屋の主人がスーツ姿で蕎麦屋にいるような、
こちら側に降りてきていない距離を感じるのではないか。
勿論扱うテーマにもよるだろうが、
スーツ姿のテーマより、
普段着で四畳半のテーマのほうが、身近に感じるのは当たり前である。
人の心には、スーツ姿で入るより、
多少汚くとも、普段着で庶民と同じ目線で語るべきではないか。
それでいて、キッチリするべきところではキッチリする、
というのがテレビという距離感ではないだろうか。
あなたは、人を応接するとき、
どのような格好で、どのような深さで、どのような心でいるのか。
その基本スタンスの話だ。
かしこまり過ぎても、相手と違い過ぎても、それは深い心の繋がりにはならない。
同じ目線を共有しつつ、互いの立場をわきまえるのが、
理想ではないか。
いや、そんなことは分かってるはずなのに、
なぜ蕎麦屋の主人がスーツを着て、
オバQで四畳半を隠そうとするのか。
つまり、隠したいのだ。
スーツは、本音を隠す道具なのだ。
それは、スーツを見るがわに伝わる。
こいつ、隠してるぞと。
見る側からは明らかに分かるのに、
表現する側に立つと、急にこのことが分からなくなるのは、
表現者としては、初心者である。
とくに、日本人は、一人ならそう判断するのに、
集団で判断すると、周囲に気を遣って、遠慮した正解を選びがちである。
最近のCMは、どうもそのような初心者(集団)が増えたようだ。
(バブル時代に金で誤魔化してきて、本当の表現はどうあるべきか考えず、
予算がなくなって、貧する者が鈍しているだけかも知れないが)
あなたの表現は、どの立場か。
よそいきで何かを隠してるのか、庶民の目線か。
醜いものを見せて嫌われてるのか、それともそれ故好感を持たれているのか。
あなた自身が、世間との距離感をはかるべきだ。
あなたが、世間をどう応接するか、その距離感を決めるべきだ。
2013年12月12日
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