2013年12月12日

フレームインとフレームアウト

基本的な演出のテクニックだが、映画全体の教養として、
脚本論カテゴリに入れときます。

フレームインとは、最初そこにはいない人物が、
通常は画面右からまたは左から画面に入ることだ。
上手と下手(かみて、しもて)という話、板付きと途中登場という話と関連する。

フレームインを撮影するときは、
役者がカメラのうつる範囲(フレーム)のぎり外に待機し、
監督の指示で画面内に登場する、という手順を踏む。

第一の嘘は、画面ぎりでの待機で、
どんなに遠くから来た設定だとしても、そのカットでは、一歩外にいるだけだ。
第二の嘘は、登場タイミングで、
早すぎず遅すぎず、ちょうどいい案配で登場することだ。

映画は、このふたつの嘘を認める。
画面の中にいない人は、いない。中にいる人がいる人。
話の進行は、遅滞ない。(下手な司会進行の会のような、間の悪いものは劇の進行上不要)


当たり前のような話だが、
3D映画では、この嘘が崩れていると感じた。
3D映画は、基本的には従来の演出方法が取られているから、
フレームインを従来の通りに撮る。
が、3D空間がそこにある故に、
画面への登場が、すぐそこから来たようにしか見えないのである。
遠くから来た設定なら、その芝居場の端から入ってこないと、
登場にならないのだと感じた。
逆にいうと、平面映画は、フレームインという特殊な文法を使っているのである。

もっとも、丁寧に芝居場の端から入ってくるように、
初期の映画は撮られていた。
次第にその段取りを省略し、フレームインという文法に収斂したのである。


例えば一本道で、AとBが反対側から歩いてきて、
真ん中で出会う場面だとしよう。
道を横から撮り、誰もいないところからはじめて、
両者が左右からフレームインするのが普通の文法だ。
二人は出会った、という意味になる。

これは、リアルには嘘である。
一本道を歩いている途中、互いに向かってくる人を、
立ち止まる随分前から認識していた筈だからだ。
二次元の平面上の「絵」ならそこまで気づかないが、
3Dの空間上の「場」なら、そこの齟齬に気づいてしまう。
従って、道を歩いてくる二人のシングルショットの切り返しを撮り、
遥か前からやってくるのに気づきながらもなお歩く、
という描写が事前に必要になってしまう。
これが意図する出会いのシーンにノイズになるなら、
この絵や場は使えないことになってしまうのだ。

逆にいえば、(平面)映画のフレームインとは、
一種の文法なのだ。

僕がはじめて3D映画をみたとき、(アバター)
従来の映画文法を変更する必要がある、と感じた。
とくに、フレームインアウトと、ヨリヒキのモンタージュ、
カットを割る行為、ナメが、
壊滅的になる予感がした。(フレームインアウト以外についてはいつか語るかも)

映画のフレームインアウトは、
舞台の上手と下手の登場退場を元にした文法である。
画面にあるものが全てで、その外はない、
という暗黙の了解を持ってきたものだ。

退場も、フレームアウトすれば、たとえ画面外に控えていても、
いないこととして扱うのだ。


左右以外のフレームインアウトは、
上下(空から、地面の中から、上や下の階から)、
奥(はるか奥以外にも、ドアを開けて、乗り物から、などがある)、
等が映画には可能である。
(手前はレンズぎり外からなので、左右に分類される)

脚本を書く上で、
登場退場を印象的にするかいつの間にかにするかは、
致命的な意味の違いがある。
基礎教養として、フレームインアウトのことは知っておいてもいい。
posted by おおおかとしひこ at 15:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック