基本的な演出のテクニックだが、映画全体の教養として、
脚本論カテゴリに入れときます。
フレームインとは、最初そこにはいない人物が、
通常は画面右からまたは左から画面に入ることだ。
上手と下手(かみて、しもて)という話、板付きと途中登場という話と関連する。
フレームインを撮影するときは、
役者がカメラのうつる範囲(フレーム)のぎり外に待機し、
監督の指示で画面内に登場する、という手順を踏む。
第一の嘘は、画面ぎりでの待機で、
どんなに遠くから来た設定だとしても、そのカットでは、一歩外にいるだけだ。
第二の嘘は、登場タイミングで、
早すぎず遅すぎず、ちょうどいい案配で登場することだ。
映画は、このふたつの嘘を認める。
画面の中にいない人は、いない。中にいる人がいる人。
話の進行は、遅滞ない。(下手な司会進行の会のような、間の悪いものは劇の進行上不要)
当たり前のような話だが、
3D映画では、この嘘が崩れていると感じた。
3D映画は、基本的には従来の演出方法が取られているから、
フレームインを従来の通りに撮る。
が、3D空間がそこにある故に、
画面への登場が、すぐそこから来たようにしか見えないのである。
遠くから来た設定なら、その芝居場の端から入ってこないと、
登場にならないのだと感じた。
逆にいうと、平面映画は、フレームインという特殊な文法を使っているのである。
もっとも、丁寧に芝居場の端から入ってくるように、
初期の映画は撮られていた。
次第にその段取りを省略し、フレームインという文法に収斂したのである。
例えば一本道で、AとBが反対側から歩いてきて、
真ん中で出会う場面だとしよう。
道を横から撮り、誰もいないところからはじめて、
両者が左右からフレームインするのが普通の文法だ。
二人は出会った、という意味になる。
これは、リアルには嘘である。
一本道を歩いている途中、互いに向かってくる人を、
立ち止まる随分前から認識していた筈だからだ。
二次元の平面上の「絵」ならそこまで気づかないが、
3Dの空間上の「場」なら、そこの齟齬に気づいてしまう。
従って、道を歩いてくる二人のシングルショットの切り返しを撮り、
遥か前からやってくるのに気づきながらもなお歩く、
という描写が事前に必要になってしまう。
これが意図する出会いのシーンにノイズになるなら、
この絵や場は使えないことになってしまうのだ。
逆にいえば、(平面)映画のフレームインとは、
一種の文法なのだ。
僕がはじめて3D映画をみたとき、(アバター)
従来の映画文法を変更する必要がある、と感じた。
とくに、フレームインアウトと、ヨリヒキのモンタージュ、
カットを割る行為、ナメが、
壊滅的になる予感がした。(フレームインアウト以外についてはいつか語るかも)
映画のフレームインアウトは、
舞台の上手と下手の登場退場を元にした文法である。
画面にあるものが全てで、その外はない、
という暗黙の了解を持ってきたものだ。
退場も、フレームアウトすれば、たとえ画面外に控えていても、
いないこととして扱うのだ。
左右以外のフレームインアウトは、
上下(空から、地面の中から、上や下の階から)、
奥(はるか奥以外にも、ドアを開けて、乗り物から、などがある)、
等が映画には可能である。
(手前はレンズぎり外からなので、左右に分類される)
脚本を書く上で、
登場退場を印象的にするかいつの間にかにするかは、
致命的な意味の違いがある。
基礎教養として、フレームインアウトのことは知っておいてもいい。
2013年12月12日
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