2013年12月14日

妙なこだわりの捨て方

極論すれば、全く別の新作を、もう一個つくるとよい。

何が妙なこだわりかは、
決して自分には見えない。

こだわるべきところをこだわるなら、
それは作品にはとっても、その作品を愛する人にとっても最高である。
が、妙なこだわりというのは、
当人だけがこだわるところで、
他の人間は首をかしげる。

かしげられた本人だけが、孤独になる。

なんでこの重要さが分からないのか、
これは作品の屋台骨にとって致命的となる重要ポイントだと言うのに。
理解賛同を得られないまま、こだわりの決着は膠着する。
それが致命的ではない、と周囲が諭しても、
この重要性を欠いた物語は、
薄くつまらないものになる、と作者は心配する。

不安と、こだわりを解決出来ない自信のなさと、孤立が、
作者を追い込み、迷路から抜けられない場合、
最悪その作品の製作は中止する。
次善は、変質したまま、首をかしげながらの製作が続行される。
(そしてそれに、最後まで、否、一生納得出来ない)

妙なこだわりは、実は正解がない。
正解にたどり着けるには10年単位かかることもある。

例えば「バガボンド」は、ずっと小次郎と武蔵の対決に迷っている。

5年前ぐらい前にさらっと対決して、それ以降の武蔵を描くことも出来た筈だ。
私たちは作者でないから、小次郎と武蔵の対決の何に作者が
躊躇っているのかはかりがたい。
伊織との出会いと農民編は、小次郎との対決後、
引退して五輪の書を著す過程の出来事にしたほうが自然である。

剣の極意の会得は、小次郎との対決に必要な要素とは思えない。
剣の対決に、剣術の奥義のようなものを描きたい、というのが、
恐らくは作者の妙なこだわりだ。

小次郎と武蔵の対決に、もっと宿命性があれば、
その妙なこだわりを実現する舞台が整うだろう。
関ヶ原でも出会っていた、又吉関連を掘る、吉岡一門とも絡んでいたなど、
後付けではなく最初から絡めていれば、
剣崎順対高嶺竜児みたいに、ドラマ的宿命を重ねていけたのに。
その運命の交差点へ向けて、という焦点があれば、
武蔵の農民編での苦悩や行動には意味を見いだせる。

恐らく小次郎と武蔵の対決には、あとしばらくかかる。
(あるいは拍子抜けするほどあっさりはじまるかのどちらかだ。
井上は、実はクライマックスを一度も書いたことがない。
「スラムダンク」の山王戦は、物語のクライマックスではない。
井上のテンションのピークでしかない)

それは、作者の妙なこだわりが、孤独な戦いのはてに、
正解を導けるかどうかで決まる。
僕は物語を書く人間として、その結論が出ることを期待している。
が、恐らくは、その結論は、待たされた時ほどの価値はないと同時に予感する。
「GANTZ」や「グラップラー刃牙」の最終回のような、
待って待って待った上での、満を持し時が満ちたのちの、
へっぽこ期待外れとなるだろう。

そこが妙なこだわりといえる所以なのだ。

作者以外は全員首をかしげるのに、
作者だけが無限に深く掘って正解を得られず苦悩している状態だ。


これは、作者が、この状態だ、と認識するしかない。
どちらへ穴を掘っていくべきかで悩むのではなく、
穴から一旦出て、周囲を見渡すことが大事だ。

僕が、時折ログラインを書き直せ、
コンセプトを書き直せ、
ワンシート(一枚絵のポスター)やキャッチコピーを書き直せ、
と日々言っているのは、
穴から出る方法のひとつである。

あと、効果的な方法は、
別の完結した作品をひとつ作ってしまうことだ。
同じ規模ではなく、製作が短い規模のものがよい。
ショートショート、一話完結のエピソードがよい。


実は、穴にいる作者にとって最も求めていることは、
「同等の実力者と問題を相談すること」である。
無理解な他の人間と違って、
そのレベルにいる人しか分からない問題を、
同等のレベルで議論することだ。

僕はトキワ荘や梁山泊に憧れがあって、
毎晩同じレベルの人間と、色々な問題を話すような日常を送りたい。
自分の抱える妙なこだわりを、別の角度から見て、
それはこういうことだから、こう解決すればいいんじゃないか、
と、同じレベルでのアドバイスが欲しい。
そうじゃないこうなんだから、じゃあこんな解決法は?
と、複数の実力者が手術の可能性や、穴を掘る方向性を、
穴と同じ深さで語りたい。

が、そんなものはない。
人間の実力は、全てのスペックで同等ではなく、
凸凹がある。得意なことや苦手なことがあり、
考え方や人生観も違う。
同期のディレクターがいる演出部にいながら、
そこは梁山泊にはならなかった。
牽制しあってた若さゆえか、方向性が違うアーティスト同士のような齟齬があったのか。

トキワ荘はない。
あるとしたら、イマジナリートキワ荘にしかない。
イマジナリートキワ荘の住人は、自分自身である。
自分と同じレベルで創作のことを話せるのは、
自分自身しかいない。

だから、そのイマジナリートキワ荘の住人になるために、
別作品を仕上げた自分に登場してもらうのだ。
少なくとも完成した人間だから、
完成していない現在の自分より、客観的な見方ができるのだ。
過去の自分は、今の自分にアドバイスは出来ない。
例えば風魔をつくっていたころの俺は、
今の俺が抱えている問題を理解出来ない。
今は風魔以上のことを考えているからだ。

だから、未来の自分に、先に自分がなるのである。

ショートにするのは、完成時間がはやめにするためだ。
ここで時間を食ったら、両方の穴にはまるからだ。
(そうやって堀りかけの穴をいくつか抱えるのが、
作家という人生かも知れない)

僕はCM監督でもあるから、
幸い、一ヶ月で完成するCMの世界から、
今の穴を見ることが出来る。
穴を掘っている人は、何を掘ろうとしているのか、
どちらに掘り、何を探しているのか、
掘り続けていたときには分からないことが、少し見えるようになる。
それはこういうことがやりたいんだろ?
だったらこういうのはどうだい?
好みによるが、こういうのもこういうのもあり得る、
でも一番はこうあるべきだろう?と。


長期連載の漫画で、たまにある読み切り編は、
作者にとってそのような効果があると思う。
(車椅子バスケの「リアル」が、バガボンドにとってそうなるかは、
現時点では不明だが、穴が増えただけのような気もする)


他人は、作品内容を救ってくれない。
作者にとって、他人のアドバイスや指示は、
作品内容を痩せさせ、変質させる、攻撃のようにしか映らない。
同じレベルで作品を練ってくれる実力者は、
滅多に出会えない。(黒澤の脚本合宿は、現代にはない)
だとしたら、自分自身が救うしかないのだ。

何が問題かは、他人の鋭い指摘が教えてくれる。
が、解決は自分自身しかない。

妙なこだわりは、捨てられない。
捨てられないなら、未来の自分に捨てさせるような、
新しい道をつくらせよう。


文章がいまいちスピリチュアル方面のような気がするが、
書く人なら分かってくれると思う。
(あと、どうしても小次郎を主人公に思ってしまうのは、
風魔の癖ですいません)
posted by おおおかとしひこ at 10:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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