脚本論ではないけれど、フィルム撮影とデジタル撮影の違いの話。
僕らの世代にとって、映画とはフィルムのことである。
フィルムで撮影し、フィルムで編集し、フィルムで上映するのが映画だ。
デジタルカメラの発達で、フィルム撮影がごっそり減った。
日本映画を支えてきたフジフィルムの映画用フィルムが、
生産中止になったのは、我々業界人にとってショックなニュースだ。
(アメリカのコダックのフィルムしか、現在はない。
フジフィルムは、日本人の肌や日本の風景の色に特化した色が出やすいと言われていた。
日本映画特有の湿っぽさは、このフィルムのせいとも言えるが)
僕は、デジタル撮影が嫌いだ。
僕は監督なので、人間を撮るとか、物語を撮ることに、
デジタル撮影はよくないという話をしたい。
デジタル撮影の最大のメリットは、コストである。
フィルムは高い。
昔の銀塩写真を思い出して欲しい。
24枚撮りのフィルムがいくらして、現像がいくらだったか。
ざっくり1000円としよう。
映画フィルムは、1秒24コマだから、秒1000円だ。
120分映画では、およそ5から7がけのフィルムが撮影される。
7がけとして、120分×7×1000円=約5000万円だ。
これがデジタル撮影では、テープ収録かハードディスク収録になる。
1000万あればおさまる。4000万円の得だ。
(ならば浮いた4000万を、画面の豪華さにかければよいのだが、
全体予算を4000万割り引くのが、今のプロデュースだ)
お金だけ見れば、たしかにデジタル撮影は圧倒的なコストダウンを実現した。
デジタル編集やCG合成には、デジタルデータは、
コピペというデータ転送をすればよい。
フィルムからテレシネ(データ変換)に更にコストがかかるフィルム撮影には、
さらに予算の追い討ちがある。
数字だけ見て算盤を弾く人なら、フィルム撮影の何がいいか、
コスト面からは分からないだろう。
では、最近の映画を見て欲しい。
「バックトゥザフューチャー」や「トップガン」や
「グーニーズ」や「インディジョーンズ」のようなワクワク感、
「レインマン」や「レナードの朝」や「カッコーの巣の上で」や「スタンドバイミー」のような深みが、
ないのは何故か、答えられるだろうか?
CGのせい、と言われたりもする。
物語の深さが、ペラペラのCGで失われたのだと。
ではCG多用の「マトリックス」はこの名作の列に遜色するかといえば、
そうではない。
文脈から分かるとおり、上にあげた映画は、全てフィルム撮影だ。
デジタル撮影とフィルム撮影の最大の差は、
僕は「人間の深みが写るかどうか」だと思う。
デジタル撮影の最近の映画を並べると、
「霧島、部活やめるってよ」「マンオブスティール」「パシフィックリム」
「ヒューゴの不思議な発明」「ツリーオブライフ」などだ。
なるべく多岐のジャンルを挙げてみた。
共通するのは、人間への深い考察のなさだと思う。
言葉を重ねるなら、
「ただ慌ただしい状況を描く、混乱が主体」といってもよい。
腰を据えて人間の深みに到達するような、
人間の根元からのワクワクがあふれでるようなものではなく、
どこか間に合わせのような、
他から借りてきたような、
どこか浮き足立ってるような、
物語と脚本と演出ばかりである。
デジタルの普及によって、人間のありかたそのものが変質してきているのはある。
「攻殻機動隊」が予測したような電脳社会、
すなわちネットであらゆる知識が外部に保存され、
人はその判断を下すだけの主体になる、
という半分ゴーストになる、という社会は、
半ば出来つつある。
人はSNSで繋がり、現実の場だとしても、ネットのほうが最早大事になっている気分すらある。
恋人たちが話をせずスマホをいじる場面のように、
もはや人々は、現実の時間を、現実とネット生活の二つに切り分けている。
その、腰を据えた感のなさは、
人間の濃さとは逆である。
逆に、山奥の合宿や修行など、濃い人間関係を体験してみると、
いかに今の人間関係が、上っ面の言葉と適当な間合いで回っているかを再確認できる。
僕は昭和の人間だから、今の薄い関係が、濃さからの離脱の心地よさと、
同時に物足りなさを感じている。
リスクもなくなったがリターンもなくなったと。
デジタル撮影は、そのような気分をうつすのに向いている。
先日、デジタル撮影は手持ちが多い、ということに気づいた。
フィルム装填しなくてよくなったデジタルムービーカメラは、
圧倒的に手持ちがやりやすい、という機動性を生んだが、
絵を手持ちにするかフィックスにするかは、監督が決めることだ。
それは、対象物が、どのように観察されるかという態度を決めることなのだ。
腰を据えずに、手持ちで慌ただしく動くのは、
デジタル時代的な人間関係に近い。
常に距離感を調整し、中身に付き合うというより、
空気に付き合う感覚。
これは、「フィックスだと絵が持たない」ことの裏返しでもある。
デジタル撮影の絵は、フィックスが持たない。
だから手持ちで「誤魔化している」。
その気分が、人間関係とも一致する。
何故だろうとずっと考えている。
ひとつには、「デジタルは全てうつる」ことがあると思う。
人間は知りたい生き物だから、
デジタルは、全ての要素をうつさなくては気がすまない。
(googleの活動は、偏執的に、全てを知ろうというエネルギーだ)
全ピクセルを、手中にしたい、管理したい、という欲望がデジタル撮影だと思う。
フィルム撮影は、デジタルに比べ、曖昧にしかうつらない。
影は潰れ、ハイは散乱し、粒子は毎フレーム暴れ、ディテールは再現しきれず、
数値どおりにはうつらない。
だから、人は、その曖昧から、想像力を働かせる。
フィルムのフィックスが持つのは、見る側が想像を働かせる時間を含むからだ。
デジタル撮影は、全てのピクセルが、撮影した瞬間に理解したことになる。
だから持たない。ハイハイわかりました、次どうぞ、になる。
「デジタルの絵は生っぽい」という感覚がある。
生ということは、のびしろのない、それでおしまいの絵、
ということを意味する。
何も発展しない絵なのである。
だからデジタル撮影は手持ちを好む。
分かってしまったフレームを続けず、常にフレームを変更して、
不安定をつくって理解を更新させようとする。
フィルム撮影のフィックスの間に起こる、我々の想像の時間を、
手持ち撮影が代替しているのである。
デジタル撮影は、手持ちで慌ただしい。
それは、止まったら全てがばれてしまって、理解されてしまうからだ。
その、対象物への観察眼、付き合い方が、僕は嫌いなのだ。
「キャリー」「死霊のはらわた」が相次いでリメイクされたが、
オリジナルに到底及ばないのは、デジタル撮影のせいが3割くらいあると思う。
人間の深い闇を、デジタル撮影は見たもの全部をうつしてしまう。
人間の深い闇は、見えていない所への、我々の想像の中から生まれる。
だから、フィルム撮影では、全部写っていないことが強みなのだ。
心霊写真は、デジタルカメラより、フィルムカメラの写真のほうが、
圧倒的に怖い。
デジタルの怖さは、全部写っていることの怖さ、
フィルムの怖さは、全部写っていないことの怖さだと思う。
我々はいつか死ぬ、アナログの生き物だ。
デジタルは、それを忘れさせて、永遠の命を手に入れる錯覚をつくる。
しかし永遠の命とは、デジタル撮影のフレームのように、
「理解し終えたことが死」になってしまうのである。
つまり、デジタル撮影は死んでいる者しか写さない。
映画とは、動きであり、変化であり、成長である。
死という停止を写すデジタル撮影は、
映画を写すことはないだろう。
映画とは、物語でもあり、
我々の中の想像でもあるからだ。
映画を写すのは、フィルム撮影である。
次の僕の映画は、毎回フィルム撮影をしたいと言うが、
予算削減で、まいどデジタル撮影を示唆される。
この文章で4000万ぶんの価値を書いてみたかったが、
それは無理だったか。
デジタル撮影全盛の映画は、いずれ映画の死を招くと思う。
だってドキュメントスタイルばっかで、
話の面白さや人間の深みに到達した映画が、
ほんとに減っているんだもの。
物語は、人類最古の娯楽であるはずなのに、
どうして物語とは何かが、ここまで議論されないのだろう。
物語が我々人間のものである以上、そこにデジタルの論法を持ち込むのはおかしいよ。
映画が物語でなく、別のショーになるのなら、デジタル撮影になるだろうけど。
(事実、3D映画はアトラクションになりかかっているが)
2013年12月14日
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ちょっと気になったので失礼。
おっしゃてることには大筋同意なんですが、
うーん、どうみてもツリーオブライフはフィルム撮影ですよ。
一部デジタルはあるにしても、90%以上はフィルムでしょう。
あんな素晴らしい撮影をデジタルだなんて悲しい。
調べてみたところ、ツリーオブライフはフィルム撮影(364時間フィルムまわしたって! オレデジタルで6時間回して非難轟々だったのに!)でした。そんなバカな、と驚きました。
何故なら、あの瞬間を切り取るためには、今の常識ではそこまで予算が出ないからです。
日の入りぎりぎりの時間を使った長回しがありました。一日に一回しかない15分ほどの時間の撮影です。
(マジックタイムなので、フィルムとデジタルの差の出ない被写体です)
あの被写体の美しさは、被写体の撮影時間と光線、被写体の芝居、ふたつの要素がそろうまで「待つ」というドキュメンタリーの撮影方法です。だから膨大にまわすのです。
それよりも、それを再現するようなカラコレしやすいデジタル撮影でやります。実際、あのトーンは今デジタルでほぼ再現されてます。ある程度予算があれば僕でも再現できそうです(パナビジョンのレンズを日本人じゃ借りられないけど)。
問題は、「待つ」根性(予算)があるかどうかです。
ちなみに、
「アリカムLT、アリカムST、アリフレックス235、アリフレックス435 35mmフィルム・カメラ、ダルサ・エボリューション 4K HDカメラ、IMAXカメラ、パナビジョン65HRカメラ、ファントムHDゴールド・カメラ、ならびにRed One HDカメラを使用」
というソースも出てきました。どっちがメインなのか分りかねますねえ。アリカム、アリフレックスがフィルム用です。IMAXは70mmの可能性もあります。
BDならノイズ見ればわかるけど。(実際、いまやフィルムのほうがノイジーだったり)
「ツリーオブライフのあの絵」でイメージしてるのが違うと、そもそも噛み合ってないかもですね。
僕は幼少の頃の、人をうつした家周りをメイントーンと思っています。
人が出てくる前の大自然のシーンは、ネイチャーフォト的なフィルム撮影かも知れないです。
そもそも、デジタルが「ぜんぶうつす」ことに対して、
フィルムは「どこか足りない」ことがいいと思っています。
だから70mmにして粒子や感度を改善してパンフォーカスにすること自体には、デジタルでええやん、と思ってしまいますね。
もうちょっと調べたら追加します。
撮影監督のエマニュエル・ルベツキは、なんとノーライトで挑んだそうです。
そりゃフィルムもまわせるわ。実際撮影部より照明部のほうが金食い虫だしね。
ノーライトだと、フィルムとデジタルはほとんど区別がつかないところまで来てますね。
撮影後の現像過程においても、ノーライトならデジタルカラコレよりも濃密な実験と補正がいけます。
ライティングをする前提でものを考えていた、プロ病かも知れませぬ。
この人はデジタルだから嫌いというより嫌いな映画=デジタルと決めつけているみたいだ。ツリーオブライフやマンオブスティールのようなフィルム撮影の映画も気に入らなかったという理由でデジタルと決めつけている。きちんと調べもせずに気に入らなかったらデジタル。
まさに知ったかぶり、井の中の蛙。
無知ついでに。聞くは一時の恥と申します。
1. 撮影機材及び現像所(+スタッフ)を調べる簡便な方法はありますか?
2. フィルム撮影だとしても、デジタル現像の絵は僕はデジタルの絵と考えています。件の二件はアナログ現像ですか?
「撮影時ノーマルで撮っておいて、カラコレ(デジタル現像)でどうとでもする」
というのが僕は嫌いで、それは表現じゃなくて保険だと考えます。
現像はタイミングぐらいの役割だと思います。
保険なしの表現こそ表現だと思ってます。
もともと水彩とか書道が好きなので。
ほんとはアンドゥもしたくないですねえ。
元から邦画は駄作しかないんだから。
その駄作しか作れない人に言われても説得力無い。
デジタルは、愚かさを増幅する道具だと考えています。
また、映画は人がつくるのではなく、
人々が作るものです。
その人々の愚かさを増幅して、
結果ノイズを増幅する顛末になっていると考えています。
フィルムの頃は馬鹿は怒鳴られ蹴られるのが当たり前でした。
邦画は駄作だらけなのは認めます。
だからちょっと邦画界の人々に絶望しかかっています。
別のルートで頑張ろうと考えています。