先日、後輩の書いたショートフィルムの脚本を、添削する機会があった。
ストーリー、場面、テーマは問題なく面白いが、
ト書きや台詞がそれにしては良くなかったので、何を表現したかったのか聞きながら、
添削することにした。
そこで分かったこと。
僕もそうだが、監督というのは、絵が先にうかぶ。
それを、とりあえずト書きや台詞で記録しようとしたものが、
出来上がった原稿になる。
つまり、原版は頭の中の想像であり、
脚本はその二次コピーとなる。
これではいけない。
脚本が原版であり、そこから想像されるストーリーや場面が、二次コピーでなければならない。
ついそれを忘れるのは、頭の中に、絵が渦巻いているからだ。
監督というのは、それを禁じても、頭の中でそれが動く人種のことだからだ。
脚本とは、その頭の中の渦の、正確なうつしではなく、
それがみんなの頭の中に想像できるように、書くのである。
自分の頭の中でカット割が出来ていて、その通りにト書きを書いても、
それは伝わらない。
人物の動きや意味を書けば、頭の中で勝手にそのようなカット割で想像するものだ。
自分の中でスローモーションで撮りたくても、それは書かない。
その動作が印象的であるような、文章を書かねばならないのだ。
説明台詞が必要になっていたら、
それを前のシーンなどで絵で示せば、その説明台詞をカット出来ることもある。
が、その前のシーンの絵が頭の中で出来上がってるから、
今更そこに余計な動作を入れることに、大きな抵抗感があるのはわかる。
としたら、それを入れる前提での、新しい絵を頭の中で渦巻かせればよいだけだ。
頭の中の渦は、このように変更可能にしておくべきだ。
先輩が後輩を添削する、という立場と実力と経験の差からこれは出来たことである。
同等の人間にこれをやられたら、不快なのは誰もが思うことである。
まあ、その後輩もただそのように添削したかは、その後を見てないので分からないが。
頭の中の渦よりも、ストーリーや思いや展開やテーマのほうが、
物語には優先度が高い。
それが面白かったから、それをなるべく素直に誤解なく理解できるような、
脚本にすることを心掛けた。
理想は、これを一人二役で出来ることだろう。
もし仲間がいるなら、
他人の脚本を添削するという経験をしてみるとよい。
その際、ストーリー展開やテーマやラストを変えることはせず、
あくまで前の稿を尊重し、書き方だけをよくしていく、
という条件で。
口下手な人の代筆をする、ぐらいの感覚で。
その人が何がしたかったのか、明らかになっていない場合すらある。
それはこういうことか、ああいうことなのか、
本人に聞きながら出来るとよい。
その上で、その物語をなるべく脚本的によくなるように、添削しよう。
そのように書き直された脚本は、
面白いか面白くないかという、内容が丸裸で見えるものになる。
ここまで来たら、ようやく話の本質に入っていけるのだ。
脚本の下手には二種類ある。
脚本表現が下手なのと、作劇の下手だ。
前者は、ある程度経験でカバーできる。
後者は、才能でないとカバーできない。
2013年12月14日
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