2013年12月14日

下手な脚本の添削

先日、後輩の書いたショートフィルムの脚本を、添削する機会があった。
ストーリー、場面、テーマは問題なく面白いが、
ト書きや台詞がそれにしては良くなかったので、何を表現したかったのか聞きながら、
添削することにした。

そこで分かったこと。

僕もそうだが、監督というのは、絵が先にうかぶ。
それを、とりあえずト書きや台詞で記録しようとしたものが、
出来上がった原稿になる。

つまり、原版は頭の中の想像であり、
脚本はその二次コピーとなる。

これではいけない。


脚本が原版であり、そこから想像されるストーリーや場面が、二次コピーでなければならない。

ついそれを忘れるのは、頭の中に、絵が渦巻いているからだ。
監督というのは、それを禁じても、頭の中でそれが動く人種のことだからだ。


脚本とは、その頭の中の渦の、正確なうつしではなく、
それがみんなの頭の中に想像できるように、書くのである。


自分の頭の中でカット割が出来ていて、その通りにト書きを書いても、
それは伝わらない。
人物の動きや意味を書けば、頭の中で勝手にそのようなカット割で想像するものだ。
自分の中でスローモーションで撮りたくても、それは書かない。
その動作が印象的であるような、文章を書かねばならないのだ。

説明台詞が必要になっていたら、
それを前のシーンなどで絵で示せば、その説明台詞をカット出来ることもある。
が、その前のシーンの絵が頭の中で出来上がってるから、
今更そこに余計な動作を入れることに、大きな抵抗感があるのはわかる。

としたら、それを入れる前提での、新しい絵を頭の中で渦巻かせればよいだけだ。
頭の中の渦は、このように変更可能にしておくべきだ。

先輩が後輩を添削する、という立場と実力と経験の差からこれは出来たことである。
同等の人間にこれをやられたら、不快なのは誰もが思うことである。
まあ、その後輩もただそのように添削したかは、その後を見てないので分からないが。

頭の中の渦よりも、ストーリーや思いや展開やテーマのほうが、
物語には優先度が高い。
それが面白かったから、それをなるべく素直に誤解なく理解できるような、
脚本にすることを心掛けた。
理想は、これを一人二役で出来ることだろう。


もし仲間がいるなら、
他人の脚本を添削するという経験をしてみるとよい。
その際、ストーリー展開やテーマやラストを変えることはせず、
あくまで前の稿を尊重し、書き方だけをよくしていく、
という条件で。
口下手な人の代筆をする、ぐらいの感覚で。
その人が何がしたかったのか、明らかになっていない場合すらある。
それはこういうことか、ああいうことなのか、
本人に聞きながら出来るとよい。
その上で、その物語をなるべく脚本的によくなるように、添削しよう。
そのように書き直された脚本は、
面白いか面白くないかという、内容が丸裸で見えるものになる。
ここまで来たら、ようやく話の本質に入っていけるのだ。

脚本の下手には二種類ある。
脚本表現が下手なのと、作劇の下手だ。
前者は、ある程度経験でカバーできる。
後者は、才能でないとカバーできない。
posted by おおおかとしひこ at 13:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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