2013年12月14日

脚本の四段階

四稿に実際ならないかも知れないが、
脚本には、四つの段階の稿があると思う。

一稿目は、がむしゃらに書いた稿である。

自分のひらめきや、思いつきからはじまって、
どうしても書きたい衝動が高まって、自分のこだわりもぶちこんで、
とにかく書いてみた原稿である。(実をいうと、初心者はこれすら完成させられない)

大抵は主人公=作者で、主人公の目から見た話になる。
リアルに書こうとするあまり、主人公の周りのことは、
とにかく何でも記録しようとして原稿に含む。
(例えば主人公が起きて満員電車に揺られ会社に着くまでを描写しないと、
その後使わない場面にも関わらず、主人公を書いた気にならないなど)
主人公中心だから、あらゆることは主人公に都合よく起こる。
主人公は何故か最強だったり、最強の立場に都合よくなる。

一人称小説や、ラノベにもありがちだ。
小説ならば文章力が全てなので、それでも商品たりえる。
村上春樹の小説は読んだことないが、映画「ノルウェイの森」を見る限り、
圧倒的な文章力のあるこの稿だと直感する。

映画の脚本としては、まだ三稿書き直す必要がある。
何故なら、映画とは三人称文学であり、
独りよがりではなく、他人と価値を共有する、芸術商売だからだ。


二稿目は、他者の立場をおりこんだ稿である。

主人公以外の、敵や脇役たちのストーリーも加味した変更を加える。
一稿目では主人公周りで精一杯だったのが、
この稿では、敵の考えや策略を含んだ、一人将棋、ターン勝負が書けるようになる。
あるラインとあるラインの同時進行や絡み合いも書ける。
ラブストーリーなら、相手が主人公を何故好きになったのか、
まで落ち着いて考えられるようになり、
それをドラマに入れ込むことが可能になる。

世界は、主人公の独占物ではなく、
登場人物たちのアンサンブルだということが、
書けるようになる。三人称文学に近づく。


三稿目は、その話を人に見せる稿だ。

一方的に話をただ語るだけでなく、
ひきつけ方や緩急を意識するようになる。
伏線やどんでん返し、オープニングの再創造、ミスリードなどは、
大抵ここで練られる。
どう見せたら、人は興味を持ち、持続して楽しんでくれるだろう、
ということが意識に入ってくる。
語りの温度感やテンポを意識するようになる。

今まで揺れていた、テーマやコンセプトやログラインが確定するのもこの辺りだ。
サブプロットが、メインプロットのサブ問題として意識されるのもこの辺りだ。
この辺りで、ようやく主人公=作者ではなく、
主人公という独自の存在になってくる。
自分を描くのではなく、主人公という他人を描く、という意識になってくる。


四稿目は、作者が観客目線で一緒に楽しむ段階だ。

こういうの見たいでしょ?俺も好きなんだよ、
という感じで、観客と一緒に、半歩先を知ってる人として、
集まった人々の輪の中でストーリーテリングを楽しむ段階だ。
今、この話が一番面白いよね?とみんなで歩むように話をする。
みんなと笑い、みんなと泣き、みんなとハラハラしながら、
作者として、扱うのにもう手慣れた人物の中にも、人物同士の空気の中にもいる。


作者の視点は、稿を重ねるに連れて、
主人公の内部、
他の登場人物の内部、
作品の外から他人に見せる、
作品の中にも外にも観客の中にも、その輪の中にもいる、
へと推移する。


あなたは、今どの稿を書いているのか、自覚してみよう。
一段飛びで出来る人、もっと段階を踏まなければいけない人、
書き手の個性で随分違うと思う。

実は、「風魔の小次郎」は、最初から四番目の視点にいたと、今なら思える。
だから初手から傑作だったのだ。
元々の原作ファンだったから、当然とも言えるけど。
僕がすべきことは、一と二の視点に潜り込んで、三の目線で再構築するだけでよかった。


脚本の書き手として、今どの段階の稿か、自覚しよう。
読み手として、まだ四稿の段階に来てないかも知れないことを、読み取ろう。

リライトのアドバイスは、
各段階において、全く違うものになる。
一稿に、観客の楽しみのことをアドバイスしても筋違いだし、
四稿目に、二稿目の将棋の改訂を進めるのは手遅れだ。

アドバイスを受ける者として、相手は何稿に値するアドバイスをしているか、
自覚しよう。ちぐはぐなアドバイスである可能性もある。
相手は評論家ではなく、自分の主観や望みを言っているだけの可能性もある。
一稿なのに三稿のアドバイスを受けても、
二稿三稿を作者が書けない限り無駄である。


毎度貶める「ガッチャマン」「デビルマン」「キャシャーン」の
糞脚本は、一稿から一歩も出ていない。
何故駄目かを、この記事を見せて、脚本家に正座させて説教してやりたい気分である。

あと、最近のCMの企画は、一稿目が多い。
ド素人プランナー、ド素人企業が、増えた証拠だ。
誰も四稿目まで練り上げようと思ってない。毎度毎度、吐き気がする。

表現、という言葉が悪いのかも知れない。
表現だと、一方的で正確なものなら、それで正解な気がするもの。
相手がどう見るかとか、それをみんなで共有することは、表現という言葉には入っていない気がする。
「表現はコミュニケーションである」という言い方はあまり好きではないけど、
せめてこれぐらいの意識は持つべきだ。
持てば、少なくとも「一方的なものいい」はただの伝達だと分かるだろう。
この言葉の嫌いなところは、志が低いことだ。
映画は、もっと高みへと、深みへと、我々の心を持っていくものだ。
コミュニケーションにそのニュアンスはない。

「表現とは、観客を巻き込んだ熱狂である」とでも言っておくか。
posted by おおおかとしひこ at 19:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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