脚本家、監督としての僕の意見は、
身体のコントロールと、読解力だと思う。
バミリ(立ち位置を示した地面に貼るテープ)を見ないで、
正確にその位置に入れる人がいる。
アップで撮るときにミリ単位で身体をコントロール出来る人がいる。
身体をコントロールしながら、なおかつ芝居はするものだ。
発声やまばたきや表情や呼吸や姿勢すら、
コントロール下におくのが役者だ。
(逆に下手な役者には、どれかを強制すると、思う温度になることがある)
バレエ経験者、武道経験者、ヨガやスポーツ経験者は、
素人より身体のコントロールを意識的に出来る。
涙すら、ともさかりえは自在に出せた。現場で30秒で出てびっくりした。
身体の隅々まで意識が届き、フィードバックを感じ、
なおかつ周りの空間での自分を、客観的に感じていないと出来ないだろう。
役者の身体は、車とドライバーで言えば車だ。
その基本性能がいいに越したことはない。
あるいは、スピードは出ないが、個性的な車でもよい。
芝居はアンサンブルだから、組み合わせが面白ければよいからだ。
その車を操るドライバーに必要な能力が、読解力だと思う。
結局この文脈はなにで、この一言や所作が、どのような意味を持ち、
どう流れを変えるのか、これが深く理解されていれば、
台詞の言葉尻はどうでもよい。
すぐれた役者は、脚本家と同じ深さまで、台本の中に潜ってくる。
どうしてあの言葉を言わず、この言葉を言うのか、
相手がなにかを言っているとき、この人物は何を考えているのか、
発言がないとき、心の中の何を外にだそうとしていないか。
あるいは、あり得た複数の展開から、なぜこれを選択するのか。
自覚的なのか、天然か。
すぐれた役者は、自分の役以外の台詞も(大体)覚える。
話の流れを理解していないと、自分のパートが何かが分からないから。
すぐれた役者は、脚本の四段階の、四稿の位置にいる。
観客の中にもいて、役の中にもいて、相手役の中にもいて、それを他人に見せる場所にもいる。
そこまで出来る人は、なかなかいない。
自分特有の空気をつくって、それをやってくる人は時々いる。
(例:キムタクは何をやってもキムタク)
自分が消えながらも、役に飲み込まれない案配を、
意識的に保てる人は滅多にいない。
「風魔の小次郎」を例に出すと、
村井も川久保も、序盤はまだ小次郎でも武蔵でもなかった。
半ばを過ぎた辺りから、もう小次郎と武蔵になっていた。
村井も川久保もそこにはいなかった。
僕は、オーディション時から、役の名前でしか役者を呼ばないようにしている。
村井や川久保と呼んだのは、最終回よりあとだった。
ずっと小次郎武蔵と呼んでいた。
それは、役と役者を同一化するための一種の呪文だ。
役者は衣装とマイクをつけたら、もうその役だ。
僕がつきあう彼らは小次郎や武蔵であり、村井や川久保ではない。
序盤からその役が身体に入っていないのは、
環境を見てから動きを決める人間としては、やむなきところ。
が、これが上手い人もいる。
「いけちゃんとぼく」の蒼井優は、最初から役に入っていた。
おそらくだが、台本には書かれていない、
もっと広い世界を創造してきてるのだと思う。
それは、脚本家の行為と似ている。
台本の1ページ目から、既に話は始まっている。
台本の1ページ目は、前の世界の続きであり、その連続性を前提としている。
だからバックストーリーといって、人物の過去を書いたりする。
(三代前まで書くという脚本家もいる)
読解力とは、ここまで想像力を膨らませることを言う。
あなたの脚本が、役者の身体のコントロールや読解力をフルに発揮するのに、
ふさわしい脚本か、考えたことがあるだろうか。
脚本が、そこまで考えられていて、
はじめて優秀な役者が奥底まで入って来れるのだ。
天才役者大竹しのぶは、「全部台本に書いてある(文字になっていないことまで、
書いてあることから読み取るから)」と言う。
そのような台本を、我々は日常的に書くべきである。
2013年12月15日
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