2013年12月15日

演技とは何か

脚本家、監督としての僕の意見は、
身体のコントロールと、読解力だと思う。

バミリ(立ち位置を示した地面に貼るテープ)を見ないで、
正確にその位置に入れる人がいる。
アップで撮るときにミリ単位で身体をコントロール出来る人がいる。
身体をコントロールしながら、なおかつ芝居はするものだ。
発声やまばたきや表情や呼吸や姿勢すら、
コントロール下におくのが役者だ。
(逆に下手な役者には、どれかを強制すると、思う温度になることがある)
バレエ経験者、武道経験者、ヨガやスポーツ経験者は、
素人より身体のコントロールを意識的に出来る。
涙すら、ともさかりえは自在に出せた。現場で30秒で出てびっくりした。
身体の隅々まで意識が届き、フィードバックを感じ、
なおかつ周りの空間での自分を、客観的に感じていないと出来ないだろう。

役者の身体は、車とドライバーで言えば車だ。
その基本性能がいいに越したことはない。
あるいは、スピードは出ないが、個性的な車でもよい。
芝居はアンサンブルだから、組み合わせが面白ければよいからだ。


その車を操るドライバーに必要な能力が、読解力だと思う。

結局この文脈はなにで、この一言や所作が、どのような意味を持ち、
どう流れを変えるのか、これが深く理解されていれば、
台詞の言葉尻はどうでもよい。
すぐれた役者は、脚本家と同じ深さまで、台本の中に潜ってくる。
どうしてあの言葉を言わず、この言葉を言うのか、
相手がなにかを言っているとき、この人物は何を考えているのか、
発言がないとき、心の中の何を外にだそうとしていないか。
あるいは、あり得た複数の展開から、なぜこれを選択するのか。
自覚的なのか、天然か。
すぐれた役者は、自分の役以外の台詞も(大体)覚える。
話の流れを理解していないと、自分のパートが何かが分からないから。
すぐれた役者は、脚本の四段階の、四稿の位置にいる。
観客の中にもいて、役の中にもいて、相手役の中にもいて、それを他人に見せる場所にもいる。

そこまで出来る人は、なかなかいない。

自分特有の空気をつくって、それをやってくる人は時々いる。
(例:キムタクは何をやってもキムタク)
自分が消えながらも、役に飲み込まれない案配を、
意識的に保てる人は滅多にいない。


「風魔の小次郎」を例に出すと、
村井も川久保も、序盤はまだ小次郎でも武蔵でもなかった。
半ばを過ぎた辺りから、もう小次郎と武蔵になっていた。
村井も川久保もそこにはいなかった。
僕は、オーディション時から、役の名前でしか役者を呼ばないようにしている。
村井や川久保と呼んだのは、最終回よりあとだった。
ずっと小次郎武蔵と呼んでいた。
それは、役と役者を同一化するための一種の呪文だ。
役者は衣装とマイクをつけたら、もうその役だ。
僕がつきあう彼らは小次郎や武蔵であり、村井や川久保ではない。

序盤からその役が身体に入っていないのは、
環境を見てから動きを決める人間としては、やむなきところ。
が、これが上手い人もいる。
「いけちゃんとぼく」の蒼井優は、最初から役に入っていた。
おそらくだが、台本には書かれていない、
もっと広い世界を創造してきてるのだと思う。
それは、脚本家の行為と似ている。
台本の1ページ目から、既に話は始まっている。
台本の1ページ目は、前の世界の続きであり、その連続性を前提としている。
だからバックストーリーといって、人物の過去を書いたりする。
(三代前まで書くという脚本家もいる)

読解力とは、ここまで想像力を膨らませることを言う。


あなたの脚本が、役者の身体のコントロールや読解力をフルに発揮するのに、
ふさわしい脚本か、考えたことがあるだろうか。
脚本が、そこまで考えられていて、
はじめて優秀な役者が奥底まで入って来れるのだ。
天才役者大竹しのぶは、「全部台本に書いてある(文字になっていないことまで、
書いてあることから読み取るから)」と言う。
そのような台本を、我々は日常的に書くべきである。
posted by おおおかとしひこ at 12:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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