とかく日本人は平面的に考える。
平面的とは、全てが均一で、無難で、失敗のない、
小さなことで差異を見いだし、全てを規則の範囲内にする、
無菌室で常に粒を揃える、ダイナミックと真逆な考え方だ。
僕が蛇蠍のごとく忌み嫌う、静止画的な感覚である。
脚本は、立体的に考えるべきだ。
人物同士は噛み合わなくていがみあう。
対立して、両立することがない。
性格は欠損している所と、充実している所が両極端だ。
欲望は分かりやすすぎ、また必死に隠す。
環境の変化は劇的で、天候も安定せず先が読めない。
だから、ピンチも多いがチャンスもある。
常に変化し、揺れ、不安定で、
弾が揃うことは永久になく、
100%の成功の確信もないが、大失敗の可能性だけはある。
数学を解いたりするようには進まず、
読めない要素だらけの所を、アドリブとガッツで乗りきるしかない。
影があり、光がある。
テンポは一定でなく、ビートはバラバラだ。
フラットやプレーンや安心はどこにもない。
あるのは混乱と無秩序と危険と、渦巻く悪意である。
だから、その突破に価値がある。
映画とは、非常事態のことである。
日常の安心、帰るべき場所、無菌の粒揃いなどの、
平穏事態などは、ない。
非常事態に直面したときの、人間の本性について描くのだ。
日常でのほほんとしてる安全な絵など、映画にとってストーリーの停止である。
別にパニック映画ほどの非常事態でなくてもいい。
好きな人が出来ただけで、世界が急に大冒険の日々になることぐらい、
誰でも知っている。
殺人事件、宇宙人襲来、怪物が襲う、家族の崩壊、首になった、恋、
全ての映画は、非常事態を描く。
非常事態は、立体的だ。一様で安定したところは、どこにもない。
非常事態では、日常で味方だと思っていた人の裏側に、
そうではないものを発見し、それと向き合わなくてはならないことが多々ある。
人間の表面的なフラットな所ではなく、不格好な、光と影を持つ、
ごつごつした内面に触れて、はじめて人間を描いたことになる。
あなたの作り出す世界は、
どこまで安定的な平面で、どこまで光と影を持つ立体か。
どこまでが日常で、どこまでが非常事態か。
ハリウッドの演技法で、
一番振り巾を大きく芝居する、というのがある。
悲しい、を、この世の終わりのように悲しく表現し、
嬉しい、を、死んでもいい、ぐらいまで表現する。
ボディーランゲージの豊かな国だから出来ることでもあるが、
感情の大きさは、
日本人のシャイなボディーランゲージで表現するような、
小さな感情でなければならないルールはない。
小さな感情の起伏しかない物語は、小さな物語でしかない。
生き死にが何故ドラマになるかといえば、感情の起伏が大きくなるからだ。
生き死にをせず物語をつくる、という縛りを自分に課してみると、
いかに、小さな感情で今まで書いてきたかわかる。
アメリカ人が演じたら、マックス大げさなボディーランゲージを演じるような、
感情の起伏を、日本語の脚本に書くことは、可能だ。
キーワードは、立体的に。
光と影の落差が、物語の加速度に比例する。
死んでもいい、から、七代祟る、まで落差というのはある。
好みかも、から、目線を反らす、程度は、小さな落差だ。
微妙な差は、小さな動きしか産まない。
日本人の日常は、後者で動くのだが、
物語となる非日常とは、その程度ではないはずだ。
物語とは、「ねえねえこんなことあったんだけど」と、
他人に言いたくなる非日常のことである。
2013年12月16日
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