2013年12月16日

主題歌をつくろう

作詞作曲の才能がある程度あるなら、
脚本を書きながら主題歌をつくるのは、有効な手である。

その脚本が実際に映像化されたら、
間違いなく、主題歌がながれる。
昨今の主題歌は名ばかりのアーティストタイアップに成り下がり、
主題を歌に乗せる能力はなくなった。
物語の世界観を歌いつつも、絶妙な距離の視点から一見別の世界を歌う歌詞、
それをキャッチーなメロディーにのせ、映画とともに永遠の記憶に残し、
なおかつ流行にのる、
そんな主題歌は減り、単なるアーティストのセールススペースに成り下がった。
「プリティーウーマン」「ネバーエンディングストーリー」
「ロッキー2」「トップガン」のような、80年代ハリウッド映画のような、
歌が映画でありこの映画といえばこの歌、
という幸せなマリアージュは、今はほとんどない。
日本で言えば、「眠れる森」「家なき子」などの90年代ドラマ、
アニメ特撮の70年代にこのマリアージュがあった。
クリスタルキングと北斗の拳、おニャン子と奇面組という不思議な偶然もあった。

今製作サイドは、アーティストに直接頼まず、音楽プロデューサーに頼むから、
間に立つ人の才能や、間に立つ人の商売上の立場が、
このマリアージュを妨げていることは明白だ。

最も作品の主題を理解している作者が、主題歌をつくるのには、
理屈上なんの不都合もない。
富野善幸(井荻燐の名で)、宮崎駿も、「哀戦士」、ラピュタ「地球をのせて」を作詞している。
ただ、音楽には、絶望的に才能が必要なのだ。


あなたにある程度音楽的才能があるなら、
ためしに主題歌をつくってみよう。
なにもそれで決定ではない、人に聞かせることもない、
自分の中にあるものでよい。
どんな映画のどんな感じか、考えたり広く調べたりすることで、
世界観が決まってくることがある。
何を目指している映画かが、明確になってくることがある。
なにせ主題を歌うのだから。

あなたは言葉のプロなのだから、
詩のひとつやふたつは書けるだろう。
谷川俊太郎に伍さなくともよい。
歌詞のひとつやふたつは書けるものだ。
五七調、七五調に言葉を整えているだけで楽しいものだ。
この制限はとくに、言葉の言い換えの訓練になる。
あることを七五調で言う能力とは、
咄嗟のボキャブラリーに関係する。(慣れもあるけど)
勿論七五調にする必要もない。現代音楽はそこまで偏狭ではない。
(が、この七五調は、随分伝統的日本語の魂を教えてくれる
ので、超オススメだ)

さて、何を詩に書くか。
テーマである。
主題である。だから主題歌なのだ。
主題の尊さを、高らかに、あるいはしみじみと、
あるいは激情をこめ、あるいは静かに、
詩にしたためるのである。

これは、ト書きと台詞で書く脚本とは、
別次元の表現方法であることがわかる。


どうせ他人に聞かせるものではない、自由にやろう。
これを、執筆の散歩中に歌おう。曲がなければ吟じよう。
執筆の初期につくっておくのがコツだ。
何故ならば、初期衝動として、生き生きとそこに最初に思った主題が刻まれているからだ。
執筆はとかく迷う。
その暗闇を一筋の真っ直ぐな光で照らし続けるのが、
歌の力である。
予想以上に、作品に筋を通してくれる。

作品が変質してきたら、別の主題歌をつくってもよい。
ログラインを書き直したり、そのようなことと同じだ。


今執筆中の作品は、10年ほど前の企画を掘り起こしているが、
その時につくったヒーローソングが、今僕を励ましてくれる。
歌には、文章にはない、人の心を捕らえる力がある。
時間軸を持つ別の芸術のことを、深く知るのも悪くない。
posted by おおおかとしひこ at 16:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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