作詞作曲の才能がある程度あるなら、
脚本を書きながら主題歌をつくるのは、有効な手である。
その脚本が実際に映像化されたら、
間違いなく、主題歌がながれる。
昨今の主題歌は名ばかりのアーティストタイアップに成り下がり、
主題を歌に乗せる能力はなくなった。
物語の世界観を歌いつつも、絶妙な距離の視点から一見別の世界を歌う歌詞、
それをキャッチーなメロディーにのせ、映画とともに永遠の記憶に残し、
なおかつ流行にのる、
そんな主題歌は減り、単なるアーティストのセールススペースに成り下がった。
「プリティーウーマン」「ネバーエンディングストーリー」
「ロッキー2」「トップガン」のような、80年代ハリウッド映画のような、
歌が映画でありこの映画といえばこの歌、
という幸せなマリアージュは、今はほとんどない。
日本で言えば、「眠れる森」「家なき子」などの90年代ドラマ、
アニメ特撮の70年代にこのマリアージュがあった。
クリスタルキングと北斗の拳、おニャン子と奇面組という不思議な偶然もあった。
今製作サイドは、アーティストに直接頼まず、音楽プロデューサーに頼むから、
間に立つ人の才能や、間に立つ人の商売上の立場が、
このマリアージュを妨げていることは明白だ。
最も作品の主題を理解している作者が、主題歌をつくるのには、
理屈上なんの不都合もない。
富野善幸(井荻燐の名で)、宮崎駿も、「哀戦士」、ラピュタ「地球をのせて」を作詞している。
ただ、音楽には、絶望的に才能が必要なのだ。
あなたにある程度音楽的才能があるなら、
ためしに主題歌をつくってみよう。
なにもそれで決定ではない、人に聞かせることもない、
自分の中にあるものでよい。
どんな映画のどんな感じか、考えたり広く調べたりすることで、
世界観が決まってくることがある。
何を目指している映画かが、明確になってくることがある。
なにせ主題を歌うのだから。
あなたは言葉のプロなのだから、
詩のひとつやふたつは書けるだろう。
谷川俊太郎に伍さなくともよい。
歌詞のひとつやふたつは書けるものだ。
五七調、七五調に言葉を整えているだけで楽しいものだ。
この制限はとくに、言葉の言い換えの訓練になる。
あることを七五調で言う能力とは、
咄嗟のボキャブラリーに関係する。(慣れもあるけど)
勿論七五調にする必要もない。現代音楽はそこまで偏狭ではない。
(が、この七五調は、随分伝統的日本語の魂を教えてくれる
ので、超オススメだ)
さて、何を詩に書くか。
テーマである。
主題である。だから主題歌なのだ。
主題の尊さを、高らかに、あるいはしみじみと、
あるいは激情をこめ、あるいは静かに、
詩にしたためるのである。
これは、ト書きと台詞で書く脚本とは、
別次元の表現方法であることがわかる。
どうせ他人に聞かせるものではない、自由にやろう。
これを、執筆の散歩中に歌おう。曲がなければ吟じよう。
執筆の初期につくっておくのがコツだ。
何故ならば、初期衝動として、生き生きとそこに最初に思った主題が刻まれているからだ。
執筆はとかく迷う。
その暗闇を一筋の真っ直ぐな光で照らし続けるのが、
歌の力である。
予想以上に、作品に筋を通してくれる。
作品が変質してきたら、別の主題歌をつくってもよい。
ログラインを書き直したり、そのようなことと同じだ。
今執筆中の作品は、10年ほど前の企画を掘り起こしているが、
その時につくったヒーローソングが、今僕を励ましてくれる。
歌には、文章にはない、人の心を捕らえる力がある。
時間軸を持つ別の芸術のことを、深く知るのも悪くない。
2013年12月16日
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