とくに実写の日本映画は、リアリティーが大事だ。
「嘘臭い」は実写の敵である。
そして、それぞれに階層が存在する。
西川美和の映画を想像するとよい。
十分にリアルな場、人、取材に基づいた事実を並べ、
人の感情の動きも、実に暗いリアリティーがある。
そのリアルと、ほんの少しだけかけ離れたマンガ的な事件が起き
(吊り橋から落下、偽医者、店が家事になり詐欺師になる)、
それがリアルな人々の内部を炙り出してゆく。
三谷幸喜の映画を想像してみよう。
コメディだから、リアリティーよりはマンガ寄りだ。
状況はコメディチックでも、
それに見せる人々のリアクションは、戯画化されているものの、
ベースはリアリティーに基づいている。
そのリアリティーが、見るものをここは「とある実在の世界」に見せる。
日本映画のリアリティーは、大体この範囲だ。
リアリティー側にはみ出すと、是枝作品だ。
ドキュメントのような進行、人の在り方である。
たしかにある実在の世界に触れた感覚は残るが、
物語性は少ない。
マンガ側は、多くのテレビ局主導の映画だろう。
踊る大捜査線以降、まるでテレビドラマではないか、
と思える映画が量産され、一種の邦画バブルをつくった。
これらの映画は総じて状況もドラマ的マンガ的で、
人物のリアリティーも欠けている。
その役の人間ではなく、その役を演じる芸能人の匂いが取れない。
ある意味スターシステムのオールスターキャストだ。
(それはかつては正月興行という特別な、おめでたジャンルだった筈だ)
少女マンガ原作映画と相性がよいのも、
テレビ局主導の映画の特徴だ。丁度良いマンガ的な状況と人間関係。
(特に男子の心理や生理にリアリティーの欠如が目立ち、
僕は好きではない。そもそも男が見るものではないが)
少年マンガ原作が大抵成功しないのは、リアリティー構築までの予算がないのと、
あったとしても、人物のリアリティーの構築がまだマンガな所だろう。
これが外国映画になると、
途端にリアリティーの基準がゆるくなる。
例えば「パイレーツオブカリビアン」は、
まあそういうものだろうと思う。
カリブ海のリアリティー、カリブ海周辺のリアリティー、
大航海時代のリアリティーがどんなものか、我々には分からない。
ファンタジーなのか、ある程度の史実に基づく描写なのか、
外人だからどっちでもいい。
つまり我々にとっては、外人がファンタジー(マンガ)だ。
海外に長くいたり、外人の友達がいたりすると、
この映画にはリアリティーが足りない、などと言うことが出来るかも知れない。
少年マンガは、ディズニーやハリウッド映画への憧れから出発しているから、
日本映画的なリアリティーと合わないのは、当然と言えば当然である。
あなたの脚本は、どの階層のリアリティーにいるかを、
常に自覚しよう。
そのリアリティーのルールから、外れないようにしよう。
(その暗黙のルールは、一幕、二幕前半に設定したことから、
類推できなければならない)
「幽霊が出る」を例に取るとわかる。
CGやパペットで、モロに幽霊という怪物をつくるリアリティーから、
姿を見せず周囲の状況だけで存在をほのめかすもの
(「女優霊」の恐るべきリアリティー! 日活スタジオの怖さ、
差し入れに来た「あんたたち何撮ってんの!」という太ったおばさん、
ロケバスの怖さ、スタッフのリアルな動き。一般の人より、業界人が怖がる映画)
まで、様々なリアリティーの階層がある。
原則は、「たとえ状況がマンガでも、人間にはリアルがなければならない」
だと思う。
(故・市川準は、「最近の作家の書く人間が、どんどんマンガになっている」
と嘆いていた)
何故なら、感情こそが、リアリティーだからだ。
どんなにリアルな場でも、気持ちが嘘なら、感情移入なんて嘘である。
感情移入がリアルだからこそ、映画は面白いのだ。
状況がマンガ的であろうと、リアルであろうと。
マンガ的な状況の「アルマゲドン」ですら、
我々は「娘を思う父」のリアルに涙する。
リアリティーの階層に、敏感になろう。
それを跨がぬような嘘を考えつき、リアルな感情劇をつくっていこう。
2013年12月21日
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