我々は、映画には第一には感情で接している。
主人公への感情移入によってだ。
さらによく出来た物語は、他の人物にも感情移入する。
感情は、何故か記憶に残らない。
良かったとか悪かったとか、泣いたとか笑ったとかの、
単純な記憶しか残らない。
これは我々人間の特徴なのではないかと思う。
どれだけ複雑で細やかな感情だとしても、
鑑賞時にはきちんと分かっていても、
あとでそれを詳細に、流れとして思い出すことは出来ない、
ということに気づいた。
感情は流れる。流れるということは消える。
消えるからこそ、次の感情を受け入れることが出来るのかもしれない。
話の途中で再生を止めたとき、その感情の起伏を、
流れとして詳細に覚えているだろうか。
おそらく否である。
代わりに、これまでのあらすじなら話すことが出来る。
何が起きて、だれが何をし、何のために誰がどうしたか。
これは物語の理屈であり、話の骨格だ。
つまり、人は、感情で接していながら、
同時に理屈として記憶に構造化しているのだ。
理屈は流れを再現できる。
その流れを再現してはじめて感情を「思い出す」ことが出来る。
人間の脳の仕組みは、このようになっていると、思う。
最終的な感情は、主人公の感情ではなく、ひとつの印象だ。
良かったとか、悪かったとか。
僕は小学校のころから読書感想文が苦手で、
感想を詳細に思い出すことが出来ず、原稿用紙を埋めるのが苦痛でしょうがなかった。
それを埋めるには、話の理屈を抽出して、ときどきの感想を思い出して、
同時に語ればよいのだ、と気づいたのは中学のときだ。
そのころから、自覚的に漫画をかきはじめていた。
なにい?!とか、必殺技とか、その瞬間瞬間の感情は、
豊かに書くのに、あとでその順番や正確さや流れを、
思い出すのが困難だということに、そのころからなんとなく気づいていた。
人間の脳は、
おそらく理屈によって、物語の記憶を構造化して残す。
感情の記憶は、そこから再現されるように。
我々が見ている側、書く側であればこの経験的事実はどうでも良い。
分析する側に回ったとき、知っていていいことかもしれない。
リライトや、大きく構造を変化させるとき、
どんな感情で見ていて、それがどういう感情に変更され、
何を失い何を得るかを、接している感情レベルで扱うのは、大変難しいからだ。
ここ変じゃね?というポイントを指摘されるとき、
大抵感情ではなく理屈のことが言われる。
理屈が変、という違和感が記憶に残るのである。
2013年12月22日
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だからケンカしたときにブワッと、"同じ感情を感じたときの事象"が
その感情をタグに一気に複数蘇ってきて、
理屈で記憶している男性が忘れているようなことも「あのときもあのときもこうだった!」と、正確に思い出してまくしたてることが可能だと。
少年漫画は展開、少女漫画は感情を追うって感じになってるのもこういう脳の構造の違いに起因しているかもなと思ってます。