「カットが変わったことに、気づかれないこと」
とよく言われる。
僕は、もうひとつあると思う。
編集とは、撮影したカットを最小パーツとして、
それをパズルのように組み合わせ、ひとつの物語という流れを創作する行為だ。
どの流れのときにどこを写し、いつまでそこを写すか(写さないか)を決めるのは、
映像で物語を語る、映画という芸術の根本である。
どの台詞のどこからどこまでをどのサイズで撮るか、がカット割りのことだ。
編集室では、その通りに繋がないこともある。
撮影前の予定よりよく撮れたカット、うまく撮れなかったカットがあることが、
その第一の理由である。
いいカットを長く使い、駄目なカットを減らすことに議論はないだろう。
第二の理由は、視点の解釈だ。
台詞を喋る人をメインで使うのか、聞く人をメインに使うのか、の例が分かりやすい。
「別れましょう」と妻が言うのがメインなのか、それを言われる夫がメインなのか。
そのシーンはどちらが主題なのか、前後やテーマ性から、
どちらを使うべきかを判断する。
いずれにせよ、妻なのか夫なのかは、編集で決まり、
語る視点、即ち監督の決定と責任である。
このときの編集の極意は、カットが変わったことすら気づかれないことだ。
物語の自然な流れで、妻が言うのを見る流れだとして、
ツーショットから妻へのアップに切り替わるタイミングは、
「妻の表情が見たい」とみんなが思う瞬間だ。
そうすると、観客はカットが変わったことすら気づかない。
カットが変わることよりも、物語の行く末に集中するからだ。
僕の考えるもうひとつの極意とは、
「そのベストタイミングを外して違和感をつくる」ことである。
例えば、妻のアップになるベストタイミングより、はるか前から妻のアップになる。
すると、何事かを妻が言おうとしている、という緊張感を放り込むことが出来る。
あるいは、その瞬間夫に切り替える。
妻の話だと思っていたのが急に夫に刃が突きつけられ、
これも別の違和感と不安定な緊張を生むことが出来る。
このわざと外すやり方を、逆目という。
カットが切り替わるベストタイミングを順目という。
順目は、流れるようにスムーズな語り口だ。
語られていることすら忘れ、ただひたすら物語に没頭するような語り口だ。
逆目は、そのベタに違和感をつくる。
いつもと違うぞという空気をつくり、異物感をだし、これからはじまる何かに警告をだし、
観客を緊張させることが出来る。
順目か逆目かは、語り手の手腕である。
ストーリーテリングの、話法として考えるとよい。
今我を忘れて没頭させるか、異物感を出すかを皮膚感覚で選んでいく。
役者も、順目逆目を使ってくる。
分かりやすい例は、ヤクザの親分を、
怒鳴ったり大声をあげるベタな怖さでいくか、
静かでユーモアもある、普通の顔なのに怖いという逆目の怖さでいくか、
というのがある。
前者は古典的、後者は一時流行って、今はそれがベタに思われる節もある。
いつもはニコニコした紳士で、キレる時だけメチャ怖い、
という組み合わせもあるし、
ずっとニコニコしたまま火箸を部下の手に刺すなんてキチガイ描写もある。
それは、何を怖いと思うか、どう語られると怖いか、
という語り口の工夫だ。
語り口に順目逆目がある以上、
脚本にそれがない訳がない。
順目逆目を使い分けることが、あなたはきちんと出来るだろうか。
ベタで行くのかそうじゃないかを判断するのは、
何がベタかを知っていないと出来ない。
ここで、どれだけ映画を見ているか、どれだけ人生を知っているかが重要になる。
中二病は、全部逆目にいく。
例えば「ストレンジャーザンパラダイス」という中二病映画は、
感情を廃したオフビートというスタイルを決定づけた。
「芝居は感情をこめるもの」の逆目の芝居をつくり、リアリティーを確保しようとした。
(このオフビートは80年代90年代00年代、一種のオシャレ映画の基本スタンスだったが、
近年、それすらも時代遅れのような気配がしている)
シーンの繋ぎにも、会話の繋ぎにも、ストーリーラインの繋ぎにも、
順目逆目の考え方は有効だ。
素直に流れに乗せるのか、唐突にして異物感をつくるのかは、
あなたの語り口によるだろう。
2013年12月22日
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