「時間軸を持つもの」として、
僕は、物語の他に音楽や料理やダンスを例に出す。
これらの理解は、「物語という時間軸」の理解の役に立つことがある。
音楽の特徴は、(名前が分からない場合)検索出来ない、
ということである。
今回はそんな話。
今でこそ鼻歌検索などが出来たが、
それがない場合のことを考えてみよう。
「誰か詳しい人に歌ってみせる」以外に検索の方法はない。
(銀座阪急、渋谷のHMVには、かつてそれに対応出来る店員が実在した。
仕事で音楽を探すのに重宝したが、今はどちらの店舗もない)
音楽のグルーヴ、曲のあの感じを再現する方法は、
それを演じて見せる以外に、我々は言語を持たない。
採譜出来る人なら、もう少し音楽を幅広く構造化して捕らえているかも知れない。
僕はそういう能力もないので、楽器とかジャンルとかで、
なるべく覚えようとする。
また、記憶に残るその音楽の部分が、全体のどの部分かは、
全体が分からない限り分からない。
サビなら分かりやすいが、
AメロなのかBメロなのか、それとも他のところか、
部分と全体の構成で記憶に残る、訳でもない。
これは、物語も同じである。
ある記憶に残る場面を、
映画や小説の山から探し出すことは非常に困難だ。
タイトルや監督や出演者が分かれば、
音楽の曲名やアーティストが分かるときと同様検索可能だが、
「○○する場面」のような記憶で検索することは出来ない。
(小説の全文検索なら、可能かもだが)
シナリオの構造に詳しければ、
これこれこういう流れのこういう場面、のように、
全体と部分の関係で構造化された記憶に、格納されている可能性はある。
あるいは、カメラマン、美術、スタイリスト、特殊メイク、
特撮スタッフ、アクション監督など、
スタッフに詳しいからこそある程度の当たりをつけられる、のは、
楽器やジャンルに詳しい検索に似ている。
物語のある場面を、一対一に表現するには、
目の前で演じて見せる以外にない。
音楽には楽譜というメロディー、映画には台本とカット割があり、
音楽は楽器や演奏の感じ、映画は絵や芝居の感じがある。
その受けた印象を主観的な言葉で語ることは出来るが、
その言葉から逆算してその場面を検索、再構築することは不可能だ。
(例: とても美しいメロディー、とても美しいドラマ)
早送りで探すしかない、ということも同じである。
再生してみるまで、記憶のそれと同一か分からないことも同じだ。
○が来て△があって、次に×があり…という流れ(理屈)で記憶されるが、
それが一対一対応でないから、大まかな流れの記憶でしかない。
曖昧な流れ検索をするには、流れが構造化されねばならないが、
ではその流れをうまく検索可能にする構造というのはない。
記号化出来る流れは、客観的にない。
楽譜と、グルーヴや受ける感覚(記憶)はまた違う。
台本と、芝居や場面から受ける感覚(記憶)もまた違う。
逆にこれらが検索可能になるということは、これらの感覚が構造化されたときだ。
そしてそれは永遠に来ない。
何故ならその感覚は、その瞬間一回きりの体験であり、
言語に出来ないものだからだ。
恐らく、料理も同じである。
「あの味の感じ」を検索する方法はない。
共通するのは、リアルな時間軸を持ち、
流れ(現れては消える連続で、その一連にグルーヴがある)が
記憶に残り、一回的体験であることだ。
また、その体験は、○と△の組み合わせ、
のように表現出来る場合は、パクリと言われる。
組み合わせならまだましだが、丸パクはバレバレである。
また、○と△の組み合わせ、などのような定番があり、
それがジャンルと言われる。
編成(ロック=ギターとベースとドラム)という空間的組み合わせだけでなく、
時間軸的な組み合わせ、つまり流れにもパターンがあることもある
(イントロ、ABメロ、サビ、二番、三番などは歌謡曲やポップスのパターン)。
あるいは、○と△の新しい組み合わせというマリアージュもある。
それは、合わせてみないと合うかどうか分からないことが多い。
服と本人が似合うかどうかは、見れば分かるが、
時間軸を持つものは、それを最後まで合わせないと判断できない。
(実時間がかかる。途中でないわ、ということもあるが)
画像検索より、音検索のほうが遥かに時間がかかる。
目で処理するより、音は実時間がかかるからだ。
おそらくこのことが、時間軸を持つものの、
本質の何かを示唆している気がする。
言葉は、体験の豊かな記憶に対してあまりにも貧弱だ。
だが、それを言葉で再構築しようとするのが、
シナリオという芸術であり、方法論なのだと自覚したい。
2013年12月23日
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