2013年12月24日

映画は何章構成か

小説や漫画は、第○章のように、章で分けるものが殆どだが、
映画は、一章構成であるべき、という話。

章は、話の区切りである。
話をいくつかのブロックに区切り、
切りのいいところで分割するのに都合がよい、
一種の道具だ。

映画は一章構成であるべきだ。
何故なら、リアルタイムで再生される、
止まらない芸術だからだ。
区切って、休むべきではない。

話の区切りがあったとしても、
前のシーン、ブロックの余韻が消えないうちに、
次のエピソードは始まっている。
むしろ、その余韻を利用して、次の流れをつくっていく。


章による区切りは、前の章で一旦話は完結し、
別のテーマ(コンフリクト)で話をはじめることを意味する。

一章の日常からはじまった主人公は、
一章の何かを終えて二章に入ったとき、
実は最初の日常に戻っている。
正確には違ったとしても、
章の区切りで、主人公は一旦「日常」にリセットされる、
という無意識のルールがある。

これが、映画には大敵である。
動きという物語が、一旦落ち着いて止まってしまうのだ。
ファーストロールの15分かけて、「動き始め」をつくった、
物語が止まってしまっては、
また15分かけて動き始めなければならないのだ。
あっためたお湯が冷めたようなもので、
再びあっためるのに時間がかかる。
その間、観客が感じるのは退屈である。
あっためたり冷めたりする風呂より、
ずっとあったかい風呂のほうがいいに決まっている。
せっかくはじまった話が終わって、また違う話がはじまった、と思われる。

オムニバス映画が何故成功しないかも、これが原因だ。

オムニバスは各話が独立しているから、
別々の話を、「強制的に、順番に」我々は見させられることになる。
個々の話が面白かったとしても、
ある話と次の話に連関がないと、不安になる。
止まらないリアルタイムの時間軸では、
あるものを順番に並べると、
強制的に意味が発生する。
並べたものを繋げる糸が、物語の原型だ。
例えば、全く関係ない数字をならべて、0921としてみよう。
殆んどの人には単なる4つのランダムだが、
これは僕にとっては誕生日という意味を持つ。
誕生日という意味が、並べられたものを物語にする。
その意味がない羅列は、苦痛なのだ。

「2001年宇宙の旅」で、
古代の猿の話と、未来の宇宙時代は、
一見異なる章に思われる。
が、猿が投げあげた骨が宇宙船に変わるジャンプカットによって、
このふたつは区切られず、つなげられている。
人類の、道具による進化、という意味でだ。
これが、猿は武器により進化した、と章が終わり、
次の章が宇宙時代からはじまっていたとしたら、
さぞ退屈になっただろう。
古代と宇宙時代は、進化という意味の同テーマでの展開だが、
急にふたつが関係なくなるからだ。

おそらく原作小説では章を分けていただろう。
だがキューブリックは、章を分けずに、意味と時間を連続体の一連の流れに書き換えた。
古代から宇宙時代への「進化」、という、この映画のテーマ性によって。
これにより、主人公は定まる。「進化する人」である。
この映画は、進化する人が主人公の、ただ一章の物語なのである。


小説の章の変わり目で、我々はトイレに行くことが出来る。
章の終わりで読書を辞め、一週間後に次の章を読んでもいい。
週刊連載漫画や、毎週のドラマは、
一話が終わったら、来週まで次の始まりがない。

つまり、章が別れた話は、章と章の間で、
意識を連続させる必要がない。
厳密には、連続している体で、我々は続きを見るが、
それは映画のように、前のものからの意識の連続ほどの、
連続ではない。

最近の週刊連載漫画は、コミックスで一気読み前提で描いているものが多いので、
週刊連載だと、前の話を忘れている所から読まなくてはならず、
いまいち身が入らない。
(「アイマムアヒーロー」とか。「スラムダンク」の山王戦は、
コミックスで一気読みすれば何の問題もないが、週刊連載ペースでは
展開が遅すぎ、前の週のことを忘れて今週を読むため、
週刊連載打ちきりの主な原因になった)

見ている人の、意識の連続性の話である。
映画では、一旦切ってリセットは、出来ないと思うべきだ。
だから、映画は一章構成であるべきだ。


ヒュージャックマン版「レ・ミゼラブル」を例に出そう。
この映画は、細かく章が別れた話だ。
小説原作だから、章が別れている。
各章は、独立した話に近い。
主人公のおかれたデフォルトの日常が、
ことごとく章ごとに変わってゆく。
奴隷の章、市長の章、隠れすむ章などだ。
それぞれの章の区切りで、主人公の日常はリセットされている。

ミュージカルでなくこの物語を描いたら、
各章がバラバラになり、何本もの映画を連続して見たかのような
非連続感を感じただろう。
それほど各章の関心事(焦点、動機)は異なっている。
たったこれだけの罪で俺は奴隷なのか、という話と、
元奴隷がばれる訳にはいかない、という話と、
ジャベールの追跡を振り切り、市民革命に協力する、という話は、
まるで別の話である。

ところが、このミュージカルを書いた人間は、
それが分かっていたのか、全編歌、という選択肢を使った。
つまり、各章を一連の歌で編成し、
その楽章の切れ目を、各章の切れ目に持ってきたのである。
ごく少ない台詞劇→ずーっと歌による劇→ごく少ない台詞劇
で一章の構成で、
連続性をもって集中した我々は、
一旦休憩し、精神的途切れを、強制的につくらされることになる。
巧みな構成である。
音楽的な構成まで詳しくないが、おそらく各章で、
楽曲のジャンルの使い分けをして、各章の色分けをしていると思われる。

映画は一章であるべき、という不文律に対する、
しかし原作は章分けしてあるというのに施した、一種のテクニック的な言い訳だが、
巧みだと思う。


3時間を越えるような大作で、
インターミッションがある映画は、二章に分けてもよい。
間にトイレ休憩があり、逆に連続していたら、
話が分からなくなってしまう。
デビッド・リーンの「インドへの道」の前半部のラストが僕は好きで、
アイツが宿敵として戻って来る感じが最高だ。
上手い「つづく」の表現だと思う。
休憩時間には、今後どうなるかという話で持ちきりになるだろう。

幕切れ、という視点では、
演劇の幕は参考になるかも知れない。
物理的なセットチェンジの必要から生まれた幕引きは、
脚本的に、章分け構成を強制している。
各章の関係、幕引きの鮮やかさ、次の幕への期待感などは、
研究に値する。
映画は三幕構成である、のはハリウッドの基礎理論だが、
各幕の終わり、
すなわち第一ターニングポイント、第二ターニングポイントは、
幕切れやつづくのような機能も果たしている。

ただ、演劇の幕と違うのは、
その直後から別のシーンがはじまることだ。
章分けせず、連続しているのだ。
前のシーンのことは、必ず次のシーンへ影響する。
言い方を変えると、
今のシーンは、前のシーンを踏まえている。
踏まえていないと、非連続性を感じ、話がぶつ切りな印象があり、
あっためたり冷めたりする風呂に感じる。


話の区切りと、章の区切りを、意識して使い分けよう。
映画には、章分けはない。
一章の物語として、意識して書こう。

章分けする物語は、長い期間の物語を書くのにむく。
ハリウッド脚本で扱う映画内時間は、48時間という説がある。
6日説、4日説もある。従って、9日半の「ナインハーフ」は、
ハリウッド映画にしては、長い期間を描きすぎという批判もある。
これは極論でもあるが、映画というのは、
一瞬の出来事を切り取り、一息の物語を書くものだ、
という意識を知っておくとよいだろう。
posted by おおおかとしひこ at 17:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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