映画は、何章にも分けず、一章で完結するべきだ。
ひとつの事件からはじまり、もつれ、ねじれ、解決する、
ひとつの塊であることが望ましい。
だが、小説や漫画原作の映画化の場合、
原作の章構成が、映画というひとつの章にうまく再構成するのを妨げる。
自分の例をあげる。
西原理恵子という漫画作家は、
数ページの一話完結のおはなしを大量に作り続けて、
シリーズを連載するタイプの作家だ。
一話が一章であり、つづきものの話ではない。
その一話の完成度は、毎度毎度素晴らしい。
ギャグや、ぶっ飛ぶ感覚や、詩的な思いなどが、
見事に融合した一品を描き続ける作家である。
が、この一話完結シリーズは、
映画という一章に、非常になりにくい。
「ぼくんち」「いけちゃんとぼく」「女の子ものがたり」
「パーマネント野ばら」「毎日かあさん」「上京ものがたり」と、
続々と映画化されたが、興行的に成功したかは脇に置いたとしても、
作品的に映画になっていたかと言えば、どれも微妙だと思う。
このことを考えることは、映画とは何かを考えることになる。
一話完結は、それぞれが章である。
一巻に数ページが30話入っていれば、30章の物語である。
西原の作家性は、一話一話の完成度が高いことだ。
一話が短編映画のように起承転結があり、
キッチリとしたオチをつくってくる。
だから、30章には、30個の起承転結とオチがある。
これを、我々脚本家は、ひとつの起承転結とひとつのオチに変換しなければならない。
映画とは、ひとつの事件が起こり、それがどうなるかという展開で引き継ぎ、
それがどうなったかというオチに至るまでの、
ひとつの物語を書くものである。
30個の起承転結とオチは、ひとつではない。
オムニバスのように、
(原作をいじらず、素晴らしいエピソード集として)
30個の話をただ並べればよいのではないか、
という浅はかな考えは、「ホーホケキョ隣の山田くん」という
歴史的失敗作を見れば、駄目だということがわかる。
前項でも議論したように、繋がりのない羅列は、
退屈を生むのである。
だが、西原作品には全体を通す事件はなく、
しかもひとつひとつのエピソードは、珠玉の出来である。
結局、僕を含むどの脚本家も、
「なるべく一本の筋になるように、各エピソードを羅列する。
前半はそのような原作尊重にしておいて、後半は世界観を継続した、
通しの大事件を描き、一章の物語とする」
という方法をとった。
前半戦は原作オムニバスをなるべく並べ、後半戦を一章にする、
という作戦だ。
が、どの映画も、前半戦が苦しい。
あるエピソードから次のエピソードへの繋ぎの理由がなく、
ただ次にこういうことが起こった、となるからだ。
オムニバスは映画ではない。
あるエピソードの結果が、次のエピソードの原因になる、
のが映画という因果の糸である。
ある一話が、次の一話の前ふりにならない限り、
その接続は、接続ではないのである。
ぎりぎり、「毎日かあさん」だけが、「子育て奮闘記」という文脈で、
脈絡のないエピソード繋ぎを正当化できた。
子育てという日々には、通しの一章がないからだ。
その代わり、それぞれの映画は、
オリジナル展開になってから、映画的魅力を取り戻す。
「ぼくんち」では、猫ばあの死以後のオリジナル展開(終盤すぎる)、
「いけちゃんとぼく」では、父の葬式からのいじめっ子への反抗をきっかけに、
連合軍をつくろうとしたり、隣町へ父の死の現場を見に行ったり、
そこで会った悪ガキどもが野原を奪いに来るオリジナル展開
(第一ターニングポイントからクライマックスの野球まで、かなり長い)、
「女の子ものがたり」では、山の遭難から帰還までのミッドポイントと、
町を出て行くオリジナル展開(事実上のクライマックス)、
「パーマネント野ばら」では、温泉宿に彼氏といく展開
(ミッドポイントを含む長いシークエンス)、
「毎日かあさん」では、離婚から鴨の死までの展開(オリジナル展開というより、
事実に基づく展開)、
「上京ものがたり」では、中盤のミニスカパブ嬢たちとのふれあい(弱い)、
などと列挙されよう。
どれも、西原漫画の匂いを残しつつ、
映画的な、「ある事件が次の事件の原因になり…」という、
一連の連鎖を描いている。
そしてそれは、西原漫画にはない、映画的な風景を描き出している。
これらの一連のサイバラ映画では、
僕のやったことが、最も突出して、映画的構成パートの分量が多い。
だから、「父の葬式後は話に入れたが、それまでがキツかった」という感想が多い。
キツかったのは、つまり、バラバラのエピソードを連鎖反応的に繋ぎきれなかった、
原作重視のオムニバス部分である。
オムニバス部分は、章構成だ。
章の特徴は、前項で論じたように、
「章と章の間には、時間がだいぶ経っていて、
次の章に来たら、主人公は元の日常に戻っている」ことである。
つまり、オムニバス部分では、
「日常が変化しない」。
これが、映画という一章と、愛称が悪い。
映画とは、非日常を描くものだ。
最初に提示された日常が、異物との出会いで壊され、
以後はラストまで、元の日常に戻ることはなく、
ずっと非常事態を描き続けるものだ。
映画とは、非常事態のことである。
これが、日常へ毎回戻るオムニバス構成と真逆なのである。
実相寺昭雄監督の、劇場版ウルトラマンは、
テレビシリーズの各エピソードを、そのまま4つ繋げたものだ。
とくに全体のはじまりも終わりもつけていないのが潔い。
ウルトラマンは、30分一話だとみんな知っているから、
それを繋げただけでも、一本になっていない、と文句を言うことはない。
むしろ、バルタン星人編、スカイドン編、ジャミラ編、シーボーズ編の
4本の素材から、一本の起承転結、一章の物語をひねり出してくれ、
という要求のほうが無茶である。
ある事件が次の原因には、ならないことぐらい、みんな分かっている。
バルタン星人を倒したことは、スカイドンの誕生には関係がない。
怪獣を倒すたびに、日常は回復し、一旦リセットがかかる。
それが一話完結シリーズの、一種のルールでもあるのだ。
サイバラ映画は、そこまで割りきるほど、
各エピソードが長くはなかった。
各エピソードは漫画では数ページ分だ。
それをただ並べると「山田くん」になってしまうから、
みんなそれぞれの工夫を試みたのだ。
それが大失敗したのか、ある程度は成功したのかは、
みなさんの評価に委ねたい。
僕は、大成功は一本もなかったと思う。
実は、僕が脚本論をずらずら書いているのも、
どうすればよかったのか、について、理論的な答えを知りたいからだ。
映画とは何か、を、ちゃんと言えたら、
「いけちゃんとぼく」の真の映画化は、こうあるべきだった、
と言えるのではないか、とずっと思っているからだ。
2008年当時では、まだここまで理論的な言葉になっていなかった。
そして、その明確な答えには、僕はまだたどり着いていない。
(今の所、ACT 1のリライトではないかと思っている。
いじめの解消という軸にするため、なにかのきっかけをつくる。
きっかけをいじめ開始の日のエピソードにしてもよいし、
最初からいじめはあったとして、それがヨシオ一人に絞られる、
というエピソードを創作してもよい。恐らく後者だろう。
ヨシオだけがいじめに抵抗する、という話でもよい。
いずれにせよ、いじめという日常が、なんらかの非常事態へ移行する
事件が必要だ。原作のエピソードは、この文脈でしか採択されず、
採択される量は大幅に減るだろう。
だが、それがこの原作のただしい映画化だろうか?
「いじめ野球」が表軸になり、いけちゃんとの日々が裏の軸になるだろう。
換骨奪胎すぎやしないか? 正解なのか?
つまり、一話完結ものの映画化は、別のまるで違う一章を創作し、
ちょいちょい原作エピソードを流用する、のが正しいのだろうか?)このカッコ内12/25追記。
映画とは、物語とは、一体、何か?
小説原作、漫画原作の映画化に潜む最大の困難は、
映像化不可能な絵や、イメージに合うキャストがいないことではない。
複数の章からなる物語を、ただの一章にすることの困難なのだ。
(例えば「北斗の拳」の映画化は、どうしたってシン戦をクライマックスにした
一章構成にするしかない。拳王や南斗の話は、別の章だ)
古典的な成功例は、
「ルパン三世・カリオストロの城」「ドラえもん・のび太の恐竜」
「クレヨンしんちゃん・オトナ帝国の逆襲」のように、
レギュラーキャラクターを生かして、
別世界の一章の事件に放り込むことである。
が、これは、テレビシリーズ(一話完結の連載)の成功が前提だ。
似たような問題は、アメコミ映画でも抱えているようだ。
下手な脚本は、継ぎはぎ、ぶつぎれの印象が残る。
特に上手く一章にまとめたのはスバイダーマン1、2だが、
これが原作のどこをどう編集して一章にしたかは、
研究に値するのではないだろうか。
2013年12月25日
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