ピンチの時に崖の上から現れるヒーロー、
ヒーローが悪役をカッコよくブッ倒す、
ヒロインがヒーローの胸に抱かれるとき、
夕日の前でたたずむ主人公、
紫煙をくゆらせ、バーでショットグラスを舐める主人公、
これらは、描きたい「絵」の代表的なものだ。
これらの場面がうまく繋がるようなものが、
ストーリーだろうか。
大抵は、うまく繋がる一本の糸はない。
絵の方が、無責任に、脈絡なく、思いつくことが可能だ。
それに脈絡を与えることが、それを繋げることだからだ。
「絵先か言葉先か」でも議論したように、
絵とストーリーは、両輪で発展するのが望ましい。
いくつかの絵があり、それを励起するようなストーリーの断片があり、
それを受けてまた絵があり、発展的にストーリーが出てくるような関係だ。
ストーリーの断片が先にあり、それに絵がつくことで発展することもある。
が、動き論でも論じたように、
人の記憶は絵であり、ストーリーではない。
焦点やターニングポイントやサブプロットやコンフリクトではなく、
「こういう場面」と、絵で論じられる。
これは、完成版だけでなく、
開発中の脚本打ち合わせでもあることだ。
脚本家以外の他の人は、殆ど「欲しい絵」について話をする。
○○な感じの場面、○○と△△が出会う場面、などである。
それは、この文の冒頭のような定番の絵の場合もあるし、
変わった絵の時もある。
脚本家にとっては、脈絡こそが脚本であり、ストーリーなのだが、
急に、絵の事だけの打ち合わせになり、
異次元に放り込まれたような思いになる。
脚本家が焦点や動機やプロット、即ちストーリーをいじるときは、
大抵、頭の中に想定されている絵がない、と言うと、
びっくりされるかも知れない。
脈絡に、絵は関係ないからだ。
小説の映画化がときに難しいのは、
心理描写の映像化の困難もあるが、
この脈絡優先の文章が多いからである。
小説でありがちなものに、
頭の場面を絵的に書いておいて、
途中から心理描写や脈絡だけを書いて、
一体この人物とあの人物はどこに居たのか分からなくなるものがある。
人物の居場所より、事情のこととか、内面のことが優先されるのだ。
だから、その場所に来てただ帰る、という、
絵的には平凡な場面になっていることも、ままある。
脚本は小説ではないから、絵を考えなくてはならない。
人物の導線、立ち位置、途中で入るのか板付きか、
シチュエーション、想定される絵、全てが分かるように書かれねばならない。
最終的にはその指示でストーリーを表現するのだが、
脚本打ち合わせの途中段階での脚本は、
そこまで気が回っていない。
事情、動機、台詞と行動、展開やオチ、焦点やターニングポイントなどの、
脈絡を構築することで手一杯だからだ。
素人プロデューサーは、その状態の脚本を見て、
「絵が浮かばない」などと批判した気になる。
絵を思いつくことは、最悪あとでもいい。
まず矛盾なく面白く、焦点を保った脈絡をつくることが第一だ。
そこから絵にとりかかっても遅くはない。
絵ありきで脚本を書き換えるのは、
脈絡を変えるように脚本を書き換えるのより、100倍簡単である。
「映画で大事な事は三つある。
それは、ストーリー、ストーリー、ストーリーだ」
という格言すらある。
逆に、絵は、素人でも浮かぶのだ。
「欲しい絵を、いってみな。このストーリーに混ぜ混むことはたやすいぜ」
と構えられるのが、脚本家として望ましい。
脚本の執筆の終わりとは、
全てを絵の指示にし終わったときである。
脈絡やストーリーの面白さが先で、絵はあとでも修正できる。
にも関わらず、
素人は、絵が出来てから、ストーリーを直そうとする。
おそらく、一生名作をモノにすることはないだろう。
今のダメ映画、ダメCM、ダメドラマは、
絵を考えてから辻褄の合うようにストーリーをつくりはじめ、
絵が追加されて、それからストーリーを直して、
それに合わせてまた絵を直して、
と、辻褄が合わなくなるような作り方ばかりだ。
それは、絵の精度を上げすぎるからだ。
絵の議論になり、ストーリーをまず考えないからだ。
絵を軽くつくり、ストーリーを練ってフィックスして、
それに絵を辻褄を合わせてつくっていくべきである。
これが企画(コンセプト)→脚本→監督の正しい順序だ。
今のダメ作品は、
監督→企画→脚本→監督→脚本→企画→…と、段取りが迷走している。
2013年12月26日
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