2013年12月27日

デジタルは人を幸せにしない:デジタル撮影は、生気が足りない

僕はフィルム派なのだが(スチルも銀塩派)、
最近のデジタル撮影映画を見ていて、ずっと物足りないのは何かに気づいた。
「人の生気」が、デジタル撮影には足りない。

複合的な要因があるが、ひとつづつ論じる。

デジタル撮影の時、彩度を抜くことが多い。
CCDまたはCMOSの絵は、彩度が高いと生っぽくなるような、
彩度の感度をしている。
彩度を上げると、安っぽくなるのだ。
一方、フィルム撮影では、
上がった絵の彩度を上げることの方が多い。
そのままの絵だと物足りなく、こってりと仕上げる(コントラストも含め)
ほうがいい絵になることの方が多い。
それが、まず人の生気の見え方に影響する。

フィルムのカラコレは、着色傾向、
デジタルのカラコレは、脱色傾向だ。
RGBのガンマなのか、トーンをいじったときに粘って出てくるノイズなのか、
何かが違うため、人の生気をフィルムは増幅し、デジタルは減衰させる。


次にフェイストーン。
フィルム撮影の方が、「肌が輝いている」気がする。
中間からハイライトの表現力は、フィルムの方が優れていると言われて久しいが、
(とくにデジタルは100でクリップするのがいただけない。
フィルムテレシネの場合波形的には120まで行けるらしい)
そのことに起因するのか、
ニキビやへこみや皺などの、
細かいディテールを強調して収録するビデオ的性質が、
未だデジタル撮影では除去しきれていないことに起因するのかは、
よくわからない。
フィルムのときは、若ければ大抵綺麗な輝く肌になったものだが、
デジタル撮影だと、その後にレタッチする必要がある気がする。
(ラテチュードと表現力の問題なのか、
或いはデジタルの方が情報量が多いため粗が見えている説もある)

「風魔の小次郎」他、ビデオ撮影のときは、僕は裏技をよく使う。
絞りを一段絞って撮り、仕上げで一段開ける方法だ(一段減感)。
ハイ側の情報を沢山収録しておき、あとで伸ばせるようにする。
ロー側の情報は諦め、しめることで潰す。
風魔でも、僕担当の回(1、2、5、6、9、10、12、13話)だけがこの方法で撮影され、
市野監督回ではそう撮られていない(トーンを決めるのも監督の権限)ので、
上がりで比較することが出来る。
市野監督回は、どちらかと言えばバラエティー的だ。
即興的な面白さが得意な監督だ。人間の間合いはテレビ的(ときに舞台的)である。
絵で見せる人の生気より、動きや喋りで見せる生気を重視しているような気がする。
それと、照明でつくりこんだ決め絵との落差が、市野監督の持ち味だと思う。
一方、僕は常に映画ルックで人の生気を写しこむ。
無言で佇むことでも何かを表現出来るような絵を撮るのが好きだ。
1話だとサッカー場での蘭子、駐車場のバトル、
2話だと野球場とスコアボード裏、
6話のバトル、10話の鉄塔上などは、
(男も女も)とくに美しい生気が写っていると思う。
具体的には、肌や髪や瞳が、上気して濡れている(風呂上がりのような)
感触になっている。

殆どデジタル撮影に移行したCM撮影でも、化粧品関係は、未だにフィルム撮影が主流だ。
伝統的な方法論が生きているのもあるが、直感的に、フィルムは肌が綺麗に出る気がする。
(正確には、肌を綺麗に出す為の方法論が確立されている)


風魔の例でも分かるように、
人のありかた、佇まいが、撮影方法によって変わってくる。

今のデジタル撮影の映画は、
人の生気がない。
生気のない映画が、増えた気がする。
元気がない。ニヒルである。クールだが熱くもない。
暖かみもない。うすら寒い。安心がない。陽気でなく陰気。
人間を信じていない。
ここに永遠に住みたい訳ではなく、仮の住みか。
季節が巡るのではなく、次に同じ季節が来る保証がない。
(そのときにこここがある保証もない)

人間のあり方も、21世紀になって変わってきた。
デジタルの普及は、デジタル撮影映画の方向に、
人間を変えていっている気がする。
と、昭和の人間としては思う。

デジタル撮影は、コスト革命を起こした。
コスト以上のものを失ったと、僕はいい続ける。
posted by おおおかとしひこ at 13:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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