僕はフィルム派なのだが(スチルも銀塩派)、
最近のデジタル撮影映画を見ていて、ずっと物足りないのは何かに気づいた。
「人の生気」が、デジタル撮影には足りない。
複合的な要因があるが、ひとつづつ論じる。
デジタル撮影の時、彩度を抜くことが多い。
CCDまたはCMOSの絵は、彩度が高いと生っぽくなるような、
彩度の感度をしている。
彩度を上げると、安っぽくなるのだ。
一方、フィルム撮影では、
上がった絵の彩度を上げることの方が多い。
そのままの絵だと物足りなく、こってりと仕上げる(コントラストも含め)
ほうがいい絵になることの方が多い。
それが、まず人の生気の見え方に影響する。
フィルムのカラコレは、着色傾向、
デジタルのカラコレは、脱色傾向だ。
RGBのガンマなのか、トーンをいじったときに粘って出てくるノイズなのか、
何かが違うため、人の生気をフィルムは増幅し、デジタルは減衰させる。
次にフェイストーン。
フィルム撮影の方が、「肌が輝いている」気がする。
中間からハイライトの表現力は、フィルムの方が優れていると言われて久しいが、
(とくにデジタルは100でクリップするのがいただけない。
フィルムテレシネの場合波形的には120まで行けるらしい)
そのことに起因するのか、
ニキビやへこみや皺などの、
細かいディテールを強調して収録するビデオ的性質が、
未だデジタル撮影では除去しきれていないことに起因するのかは、
よくわからない。
フィルムのときは、若ければ大抵綺麗な輝く肌になったものだが、
デジタル撮影だと、その後にレタッチする必要がある気がする。
(ラテチュードと表現力の問題なのか、
或いはデジタルの方が情報量が多いため粗が見えている説もある)
「風魔の小次郎」他、ビデオ撮影のときは、僕は裏技をよく使う。
絞りを一段絞って撮り、仕上げで一段開ける方法だ(一段減感)。
ハイ側の情報を沢山収録しておき、あとで伸ばせるようにする。
ロー側の情報は諦め、しめることで潰す。
風魔でも、僕担当の回(1、2、5、6、9、10、12、13話)だけがこの方法で撮影され、
市野監督回ではそう撮られていない(トーンを決めるのも監督の権限)ので、
上がりで比較することが出来る。
市野監督回は、どちらかと言えばバラエティー的だ。
即興的な面白さが得意な監督だ。人間の間合いはテレビ的(ときに舞台的)である。
絵で見せる人の生気より、動きや喋りで見せる生気を重視しているような気がする。
それと、照明でつくりこんだ決め絵との落差が、市野監督の持ち味だと思う。
一方、僕は常に映画ルックで人の生気を写しこむ。
無言で佇むことでも何かを表現出来るような絵を撮るのが好きだ。
1話だとサッカー場での蘭子、駐車場のバトル、
2話だと野球場とスコアボード裏、
6話のバトル、10話の鉄塔上などは、
(男も女も)とくに美しい生気が写っていると思う。
具体的には、肌や髪や瞳が、上気して濡れている(風呂上がりのような)
感触になっている。
殆どデジタル撮影に移行したCM撮影でも、化粧品関係は、未だにフィルム撮影が主流だ。
伝統的な方法論が生きているのもあるが、直感的に、フィルムは肌が綺麗に出る気がする。
(正確には、肌を綺麗に出す為の方法論が確立されている)
風魔の例でも分かるように、
人のありかた、佇まいが、撮影方法によって変わってくる。
今のデジタル撮影の映画は、
人の生気がない。
生気のない映画が、増えた気がする。
元気がない。ニヒルである。クールだが熱くもない。
暖かみもない。うすら寒い。安心がない。陽気でなく陰気。
人間を信じていない。
ここに永遠に住みたい訳ではなく、仮の住みか。
季節が巡るのではなく、次に同じ季節が来る保証がない。
(そのときにこここがある保証もない)
人間のあり方も、21世紀になって変わってきた。
デジタルの普及は、デジタル撮影映画の方向に、
人間を変えていっている気がする。
と、昭和の人間としては思う。
デジタル撮影は、コスト革命を起こした。
コスト以上のものを失ったと、僕はいい続ける。
2013年12月27日
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