いつの頃からか、カメラワークという言葉は、
クレーンの動きや、ステディカムや手持ちの動き、
パンやチルドやフォーカス送りの動きを指す、
素人評論言葉になってしまった。
ワークと言う言葉がそれを連想させるのだろう。
それは間違いだ。
フィックス長回しでも、「いい絵」をつくるのが、
カメラワークが機能していることである。
カメラマンの仕事は、カメラを動かすことではない。
いい絵を撮ることだ。
何がいい絵なのか、という議論は置いといて、
カメラマンの仕事は多岐に渡る。
まずアングル(構図)である。
被写体をどういう構図で捉えるかを決めることを、
アングルを切るという。
構図は、カメラの場所とレンズで決まる。
プロは、カメラを覗かなくても、現場を見ればどこから何ミリで狙えばいいか、
大体想像がつくものである。
(若い頃WOWOWのCMの演出助手についたとき、
名カメラマン中堀さんが、ロケ場所の全景を撮る場所を、
周囲を見渡して、「あの山に上ろう。多分800ミリがいる」と
突然言い出したときはびっくりしたものだ。
実際、山の中腹まで登ってその絵を撮ることになった。
「見たい番組がある」のシリーズの、時代劇編のときの話である)
レンズを決めることは、「欲望の距離」でも話した。
カメラマンと僕は、カメラを置く場所に先に動いて、
助手が機材を持ってくるまでの時間で大体の絵作りの話をする。
また、ファインダーを覗きながら、
人の位置や目線、小物の配置を微妙に変えるのもカメラマンの仕事だ。
映画はカットの集合であるから、
他のカットと繋いだとき、位置関係を多少変えてばれなければ、
ばれない範囲で美しい構図にすることに、反対するものは誰もいない。
これを「嘘をつく」と言う。
大抵、現場では、ナメモノや小物の配置を嘘をついて移動させ、
美しい構図に微調整する。
これは日本式のシングルカメラでしか出来ない方法論だ。
(ハリウッド式のマルチキャメラでは、同時に回すので、
シングルカメラほど、1カットの絵の完成度を嘘をついて上げられない)
レンズを決めると同時に、絞りをいくつにするか決める。
絞りを決めるということは、被写界深度を決めることだ。
詳しくは写真の専門誌の解説を読めばわかるが、
要は「どこにどれぐらいのぼかしを入れるか」を決めることだ。
背景をぼかしたり、あるいは全ての距離にピントが合うようにしたり、
それは、その絵の中で、何を強調して何を捨てるかをコントロールすることである。
次にすることは、照明を決めることだ。
顔にフラットに光が当たるべきか、半分潰れて陰影を強調するか、
ボケだけでなく、照明でも何を強調して何を捨てるかをコントロールすることができる。
目にキラキラを入れる(キャッチライト)かどうかも決める。
市川崑は、照明とは、どこを影にするかを決めること、と言っていた。
それは、絵の中で強調することは残し、あとは潰すという方法論だ。
写真とは、光と影の芸術である。
影は想像力を刺激する省略である。
光を当てて被写体を見せることだけが、
ここを写すというカメラマンの意志なのである。
照明部は、そのカメラマンの指示で、照明器具を調整する。
(勿論、個性の強い芸術的な照明技士も沢山いる)
画面の配色を決めることも、カメラマンの仕事である。
デザイナーや監督の意向もあるものの、
最終的な絵の中の配色の、ある程度の最終責任はカメラマンにもある。
ロケーション、セットデザイン、衣装、小物の配色は、
事前にカメラマンがチェックする。
それが美しくなるように、意見することもある。
監督の意図を汲みつつ、最終的に定着する色が美しくなるように、
照明のフィルタ、レンズ前(または後)のフィルタで着色、減色するのも
カメラマンの仕事だ。
撮影後の現像行程で、撮影状態のフィルムから、
明るさやコントラストや色バランスを、美しい方向にもって行くのが、
実はカメラマンの最大の仕事である。
CMの世界では「トーン」、映画の世界では「ルック」と呼ばれる、
何とも言えない絵の感じをつくるのが、カメラマンの仕事だ。
デジタルによってフォトショ以上にカラーコントロールが可能になったが、
ベースになるのは、白黒写真時代の暗室と、やっていることは同じである。
暗室は、現像する場所ではない。
現像したネガから、紙焼きをする場所だ。
ネガからコントラストや明るさなどを弄って、
思いのように絵をコントロールする場所が、暗室なのだ。
撮影した絵から、更に暗部を潰して影を増やしたり、
逆に影を浮かしたり、主題となるところを強調したり、
ダイナミックにしたり柔らかくしたり、
トーンコントロールで、撮影した絵は、いかようにでも姿を変える。
暗室の魔法は、専門家以外立ち入り禁止だ。
それくらい、カメラマンの最大の仕事場なのだ。
勿論、監督にも表現意図があるから、その場所には監督もいるのだが。
それにしても、絵の最終的な美しさは、
現場ではなく、暗室で作られていることを、多分素人は知らない。
カメラマンは、この最終形を想定して、現場ではたらく。
この全てのことが、カメラワークと呼ばれるべきであり、
カメラマンの仕事の本質である。
ドーリーの滑らかさとか、ステディのダイナミックさは、
むしろ特機部の仕事であり、カメラマンの仕事ではない。
と、言っても素人には分からないので、
絵が美しいのは、
そのロケ場所が美しいだけでなく、
その芸能人が美しいだけでなく、
その天気が美しいだけでなく、
カメラマンが仕事をしているから美しいのである、
と言っておく。
素人カメラマンの写真より、プロの写真が美しいのは、
機材のせいではなく、腕のせいである。
(同じモデルを素人とプロが撮った比較などを見るとよい)
カメラワークという言葉がいけないのだな。
カメラマンワークと言えば、正確に捉えられるのだろう。
故・篠田昇、リーピンピン、クリストファードイル、
笠松則道、上田義彦(全員敬称略)などが、
独特の個性の美しさを撮る人達で、分かりやすいだろう。
映画をカメラマンで見るのも、面白い。
大抵同じ監督と組んでいる。
違う監督とやるとき、いつもの監督が違うカメラマンとやるとき、
などの映画を比較して見ると、なにかが違うのが明らかだ。
それが、個性であり、掛け合わせの面白いところだ。
脚本論とあんまり関係ないかもだが、映画の雑談ということで。
2013年12月29日
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