2013年12月29日

デジタルは人を幸せにしない:アナログには生気が写っていたのは何故か

デジタル撮影論のつづき。
前回、デジタルには生気が写らない、という話をしたが、
そこを深く掘っていこうと思う。

アナログ写真の例で、素人投稿写真を思いだそう。
そこには、ニオイが写っていた気がする。

汚いとか臭そうとかも含めて、視覚以上に嗅覚が刺激された。
昔のヌード写真やビニ本、加納典明の写真は、
くさそうな感じがした。
湿度や体温、冷たそうや痛そうなどまで、
視覚情報に含まれていた気がする。

心霊写真は、デジタルになってから怖くなくなった。
アナログ写真の、この世のものでない所と繋がっている、
という気配が、写らなくなった。
古い心霊写真の凄み、つまり、幽霊やあの世が実在する感じは、
デジタルには写らない。
アナログレコードにはあった、霊の声が入るような怪奇現象も、
デジタル(CDやmpeg4)になってとんと聞かない。


デジタルの特性は、世界のサンプリングだ。
メッシュを引いて、交点の数字を拾って正確に数値化する。
アナログの特性は、連続変換である。
増幅して別のアナログ信号へ変換する。
(再生はその逆変換)
変換行程で劣化するが、「世界の理屈」の連続的一対一写像
であることに変わりはない。
一方デジタルは、世界を抜き取りしてくる。(離散変換)
10個置きに1個取るイメージだ。
のこり9個は、捨てる。
アナログは捨てない。その代わり精度が落ちる。
この差が、世界の理屈がそこに現れるかの差のような気がする。

視覚情報は、ほんとうに視覚だけの情報なのか。
気配、温度、湿度、熱気、匂い、汗臭さ、禍々しい感じ、どす黒さ、この世のものではない感じ、
それらの(獣的な)情報を含んでいるのではないだろうか。
アナログは、それを写像してもいたのではないか。

デオドラント社会などと言われて久しいが、
無味無臭やクリーンや感情をモロにださないこと(クールとか、スタイリッシュとか)
などが尊ばれているのは、デジタルの絵と同じことだ。
その絵は、「表向き」の絵だ。
10個の中の9個を捨てた絵だ。
そのよそ行き感が、デジタルの絵にはつきまとう。
フォトショによるレタッチが、それに拍車をかける。
いまや雑誌の表紙やグラビアで、修正のない写真はない。
皺やニキビや肌荒れやクマや充血を除去され、
全てが「仮に」輝いている。

キレイという価値観の問題である。
クリーンで傷のない、よそゆきのものが、キレイであろうか。
美しいことは、それだけだろうか。
僕は昔から、クリーンとビューティフルは違う、と言ってきた。
どちらも日本語ではキレイというからたちが悪い。
僕はキレイ(ビューティフル)だと思っていても、
CMのお客さんはキレイ(クリーン)ではない、と言われたりする。


漫画の主人公で、瞳に星が入らず、
ベタ目だけになった主人公が増えたのはいつ頃だろうか。
デスノートやナルトあたりからだろうけど、
それが、アナログ的なものの拒否に僕は思えた。
すなわち、感情を出すのはカッコ悪く、クールに振る舞うのがカッコイイという風潮だ。
狂おしい思いや、動揺や、手酷い失敗や、歓喜や、汗と血と涙は、
なるべく見せず、ツンであるのがよいという価値観だ。
デジタルの普及により、人間臭さが、どんどん追いやられている。
失敗にアホみたいに取り乱すことは、してはならないことぐらいの勢いだ。
それは、クリーンだが、果たしてビューティフルだろうか。


一方、デジタルの絵は、CGと相性がよい。
とくに、クルマ、メカ(エンジン、カメラ、髭そり器、家電、スマホ)などのCMでは、
そのブツのアップは、今殆どCGでつくっている。
苦労して撮影するより、ディテールを追いこめるからだ。
この、「ディテールをいくらでも追いこめる」というのが、
デジタルの病であると思う。
絵の全てを、人はコントロール出来ない筈だ。
世界の理屈を、全てコントロール出来ないように。
それが、サンプリングでつくられた仮想世界では、
全てがコントロール出来る錯覚があるのだ。

デジタルは、全てをコントロール出来る。
アナログは、全てをコントロール出来ない。

それが、両者の大きな、そして決定的な差である。


フレッシュな果実、旨そうな食い物や酒、体が暖まりそうな温泉、花、モノの存在感、
人の心、瞬間的な人の美しさ、この世だけでないあの世がありそうなこと、死や廃墟。
これらは、決してコントロール下に置けない。
だから、アナログで撮るべきだ。

コントロール下に置けるもの、
メカやデバイス、整形、予算を押さえたもの、表面的なよそゆき、抜き取った世界、
作りての思い通りになるロボット、永遠の命、
などは、デジタルで撮るべきだ。

どちらが人の幸せに直結するかは、あなたが決めればいい。
人は、何で生きるのかという哲学だからだ。
我々は永遠ではない。だから僕は、アナログ派である。


生気とは、永遠の死への、抵抗の証である。
だからアナログには、生気が写り、
デジタルには、生気が写らない。
posted by おおおかとしひこ at 15:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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