詰まらない脚本を評して、「何がやりたいのか分からない」
というのをよく見るが、これは批評としては誤りだ。
なぜなら、書き手が「○○がしたかった」と答えれば、
「○○がしたかっただけではないか」と帰されるだけだからだ。
脚本は流れという線であり、点ではない。
そもそも、「○○がしたい」と点で描写出来るほど、
脚本は単純ではない。
評論の仕方が間違っている。
このタイプの文句は、
「テーマがよく分からない」と言っていると見るべきだ。
テーマが明確かどうかと、
ストーリーが面白いかどうかは、実の所関係はない。
話としては凄く面白いのだが、
その場の面白さだけで、
あとにテーマが全く残らないタイプの話もある。
例えば「浦島太郎」である。
奇想天外な冒険譚だが、この話のテーマは明確ではない。
「遊び呆けていたら時の経つのは早い」が
テーマ(教訓)と言われることもあるが、
この話では、浦島はいじめられた亀を助け、
お礼をされただけで、遊び呆けてやろうと思っていた訳ではない。
しかも「そろそろ戻らねば」と節度もわきまえた、
比較的人格者だ。
義侠心もあり、節度もわきまえた若者が、
何故時を越えるような惨い仕打ちを受けなければならないのか。
乙姫は玉手箱の仕組みを言わなかった。
時を越えたことも言わなかった。
知らないのについうっかり開けただけが、
浦島の落ち度である。
これは、遊び呆けていたら時の経つのは早い、
というテーマにふさわしい落ち度だろうか。
このテーマを描くなら、
浦島にはやらねばならないことがあるが、
それを放って遊び呆ける、というぐうたらな浦島であらねばならない筈だ。
そこで気づいたら300年経っていて、もう取り返せない、
というオチに接続すべきである。
つまり、「浦島太郎」という物語は、
プロットの構造が、このテーマ(といえるかどうか微妙だが)の構造と、
関係がないのだ。
プロット自体は非常に面白い。
亀の背にのって海底城へ、そこでの歓待、帰ってきたら300年経っている、
開けてはならぬ玉手箱など、面白い要素満載だ。
が、この展開や落ちは、テーマ(といえるかどうか微妙だが)を
言う構造にはなっていないのだ。
こんな時、「何がしたかったのか」という感想が出るのである。
この問いに対して、竜宮城のディテールや、
タイムスリップ、と「点」で答えるのはナンセンスだ。
それがやりたかっただけなんでしょ、と益々突き放される。
お話は線(正確には、複数の線の絡み合い)であり、点ではない。
その全体がやりたかった訳で、点で答えられるものではない。
「何がしたかったのか」という問いは、
その何かを特定しようという問いではない。
「この話のテーマが、ストーリーから導き出せない」
と言っているだけなのである。
ストーリーには、テーマがつきまとう。
道徳的教訓や、なんらかの定理(テーゼ)の形をしている。
プロットの構造は、テーマの暗示のためにある。
道徳的教訓話なら、
ダメな人といい人の比較や、ダメな人の破滅、
いい人が報われる、などのプロットと不可分である。
テーゼがあるとして、その逆(アンチテーゼ)側の敵がいて、
それを倒す、ぎゃふんと言わせる、などのプロットが、
ハリウッドの物語法である。
(物語はハリウッド型だけではないから、これ以外にもテーゼの語り方はあり得る)
テーマなきストーリーは、線でしかない。
むしろ、線という記憶に残らないものを、
記憶に留めるには、テーマという点しかないのである。
「何がしたいのか分からない」という批評は、
テーマが点として記憶出来なかった、と言っているのである。
逆に、最近あった面白い話、
芸人のすべらない話、漫才ネタ、落語などは、
テーマのない、線だけの話だ。
そこから教訓を導き出すのが目的ではなく、
笑うことが目的である。
怪談も同じだ。怖いことが目的で、テーマや教訓があるわけではない。
(祠を壊しちゃダメ、とか、行っちゃいけない場所、
みたいな教訓を含む場合もあるが)
つまり、単なる笑い話、怖い話は、
「何がしたいのか分からない」と言われるタイプの話である。
それがそう言われないのは、
最初から、笑い話、怖い話として、見ているからである。
エロ話、噂話、トリックを解くミステリー、極端には問題と解答、
も同じくだ。
これらは、その目的を果たせば、テーマはなくてもよいのだ。
ここから得られる結論は、
我々は、「テーマを見るために映画を見る」という極論である。
それが明快で、しぴれるように強烈で、オリジナリティが溢れ、
びんびんキャラ立ちしていないのなら、
そのストーリーは、「何がしたいのか分からない」なのである。
だからといって、
テーマありきの話は、単なる説教である。
キャシャーンなどの愚作を見るとよい。
高校生弁論大会なみの論理組み立てで、シナリオが書かれている。
高校生弁論大会のほうがまだ世界をよくすることを訴える分ましだ。
主張や宣言は、ストーリーや作者がするべきではない。
そうしたかったら、この文章のように、
文章で書けばよい。(逆に、文章を書くとは、主張することだ)
物語を書く行為は、
浦島太郎や笑い話や怪談と、弁論大会の、間の行為なのだ。
ストーリーがテーマであり、テーマがストーリーなのだ。
面白いディテールやダイナミックな展開や、笑いや恐怖や謎やエロを楽しみつつ、
気づけばそれらは、
明確で、オリジナリティ溢れるキャラ立ちしたテーマが、
最後に点として鮮烈な記憶に残るものなのだ。
しかも一度も説教されることなく。
それがどうやったら出来るのかに関する、ルールはない。
何故なら、新しいテーマとプロットをつくることこそが、
創作という行為だからである。
そこまで分かった上で、
評論家やネットの人々が、「何がしたいのか」と言うことは稀だ。
そう言われる作品の、線と点の関係を、整理して考えてみよう。
脚本家は、最初にテーマありきではないと思う。
最初に、原始的なプロットありきだと思う。
「これは面白い話になりそうだ」という断片から、
創作は開始される。
そのときに思っていた無意識や世間への問題意識や直感が結合して、
テーマへと昇華していくのだと思う。
プロットが大体出来上がったところで、あるいはプロットを練る途中で、
「このお話のテーマは何か」を問い、明確に書くことは重要である。
それが最終稿で変更されることになっていてもよい。
問題は、ストーリーとテーマが、分離不可分な、
一体化したものになるまで練られているかということである。
そこまで考え尽くして、はじめて「何がしたいの?」と言われなくなるだろう。
面白いか、面白くないか、出来がいいか、悪いか、
という、次の段階の評価基準に乗せられるだろう。
2013年12月30日
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