2014年01月03日

ダメなCMの典型から良いCMまで

正月帰省したこともあり、随分と正月CMをみた。
松の内が明けて平常運転に戻った週明けが、
今年のCM業界の趨勢を示すだろう。
業界に長いこといると、
ダメなパターンと良いパターンが、自動的に見分けられるようになる。

典型的な例をあげて説明しよう。
これは、表現と内容という、脚本論の一部の議論である。
例が多いこと、典型的な成功と失敗がわかりやすい為、CMを考えることは勉強になる。



上中下でランクわけしよう。


1 下のランク

下の下:頭から尻まで、びっちり説明する

企業広告、バーゲン(初売りなど)の告知に多い。

人の説明を聞きたい人は、この世にいない。
聞きたい人は、その広告を見る前からすでに興味があって、
説明に「我慢」出来る人だけだ。

校長先生の朝礼、と例えればよいだろうか。
校長先生は、きっと言いたくて言っているのだろう。
しかしそれは、決して聴衆の心に届かない。
「言いたいことをただ言うだけ」の広告は聞いてもらえない。
俺たちには、関係のない情報で、聞く価値がなさそうだからだ。
校長先生と生徒たち、どちらが大事か。生徒である。
校長先生は、この場合、死んでくれたほうが嬉しい。
できれば朝礼は出たくない、というごく普通の感覚を、誰も覚えていないのだろうか。


下の中:それを、ちょっと面白くいっただけ

単なる説明ではなく、面白い言い方や、キャッチーな言い方や、
ビジュアルに変えたもの。
たいていコピーだけ、オチだけ、ちょっとしたビジュアルが面白いだけで、
全く面白いわけではない。
が、見る人の気持ちを1割程度考えているので、ワンランクだけ上である。

面白いとかキャッチーは、同時代的感覚、いわゆるセンスと関係する。
にもかかわらず、
キャッチコピーだけをちょっと面白く言えば面白いと思われるだろう、
というズレが寒いものが多い。そういうのは、腹が立つだけ下の下の下である。

「面白い言い方」とは、
世の中でまだ誰も言葉にしていない感覚を、
はじめて言葉にしたような詩人の偉業
(例:恋は遠い日の花火ではない)である。
そこまで志と教養のあったものは、見かけなかった。
大抵ダジャレだ。
少なくとも関西では、ダジャレは笑いのランクとしては最低である。
普通の話よりランクが低いと思われる。
(仕事のコンテでダジャレを出すことは、関西人は一生ないだろう。
ところが、笑い不毛の地、関東以北では、ダジャレこそ文化らしい。
笑いに関して、ダジャレは蛮族の文化と関西人は思っている、
ということは、東の人間は知っておくとよいだろう)

そんなことで好かれる筈がない。
自己紹介でダジャレを言う寒い先生のようだ。

昔一口チーズの企画打ち合わせで、
オヤジCDが、ぱくっと食べて「おいしさラッキー!」って言うのはどうだ?、と、
恐ろしく寒いことを言った。70年代のコピーか。

芸人を器用して持ちギャグと商品特徴を引っかけるタイプも寒い。
持ちギャグの本質と、商品とが本来関係がない寒さだと思う。

このランクの成功範囲は、
クスッときたり、カワイイ感じ、うまいこと言った、ぐらいが成功ラインで、
その達成度合い(心を揺さぶる度合い)は、低い。

ただカッコイイものだけを写しているだけの、
「スタイリッシュな」広告も同じくである。
ただ商品名を連呼したり、バーゲンだから売り場へ走るのを写しているだけなのもこのランクだ。
どれも言えるのは、「平凡」(テレビでしょっちゅう見たことがある)
ということである。

下の中2(この項1/15追記):笑顔やうまい顔を撮れば、その感情になると思っている
人間にはミラー細胞がある。
人が嬉しい顔をすれば嬉しい顔をするし、悲しい顔をすれば悲しい顔をする。
共感や感情移入の基本である。
だからといって、幸せな笑顔をCMで見せるのが有効とは、思えない。
「幸せな笑顔になるような内容を表現する」ことを放棄した思考停止でしかない。

「うまい!」という食べ物系のリアクションも、同じくである。
その顔をしたからとしても、その感情には、人はなってくれない。
にも関わらず、つまらないCMには、幸せそうな嘘っぽい笑顔や、
うまい、という笑顔で溢れている。
そんな他業種他社のCMを見て、幸せになったことなど、
視聴者としては一度もないはずなのに、自分が表現側にまわると、そのような下手を、
下手と思わないのだ。
例をひとつだけあげるとすれば、創価学会のCMである。
笑顔が幸福や安心を表現するのではない。
内容が幸福や安心だから、人は自動的に笑顔になるのである。



下のランクに共通する特徴は、
一方的な物言いで、これを見た普通の人が「どう楽しむか」という感覚に乏しいことだ。
見る俺たちは、全く面白くない。
彼らは、オレスゲーを表現するだけで精一杯で、
相手と対等に会話したり、相手が感心したり、
知らないことを知って知的好奇心を刺激されたり(ここまで中ランク)、
相手を引き込んで夢中にさせるレベル(上ランク)に来ていない。

校長先生や寒いダジャレの先生に擬人化したのは、
全然生徒に人気が出ないことを言わんがためだ。


下の上:それでも、全てが統一された趣味で貫かれている

絵の感じ、空気感、音楽、言葉、とがり方、
それらに強烈に一人のいいセンスが貫かれているもの。
それらが一篇の詩に値すれば、それは趣味のよい自己紹介となる。

問題は、その趣味の人しか強烈に同調出来ない点である。
それ以外の人々を取り込めない時点で、マーケティングの枠を壊す力はない。
ファッションブランドの広告は、わりとこのへんに集中する。
趣味のよさ=ブランドの世界観だからだ。
キューピーの広告も、ここにいる。あれはハイファッションである。

それらは感覚的なものであるから、感覚的な世界でおしまいだ。
世界の人全員が心震えるセンスというのは、そもそもないからだ。


下の上2: 有名人がストレートに良いですよ、という

広告の昔からのやり方である。スポンサードするという考え方。
下の中より上にランクさせたのは、
有名人がいいと言えば、この国は動く国だからだ。
その性質を利用するのは、効果はある。
その為に、「タレントCM」という、
契約金に何千万も億も払う契約が存在するのである。
が、その有名人に興味のない人には、響かない。

ちなみに、子供や動物の可愛さを利用するのもこのランクだ。
ただカワイイやつらを写して情動に訴えるだけだ。


下のランクで多いものは、
殆ど全カットに注意書が書いてあるものである。
カットとは何かを、つくっている人は知らなくて、
看板と同じ感覚で、「空いてる所に注意書を入れたがる」という
特徴がある。そういう人々は、要するに貧乏根性である。
そんな根性の悪い人からものを買う人は、世の中にいない。

トップカットから企業ロゴを出したり、
ずっとロゴが右上に出たりするタイプは、下の下の下だ。
それは、俺たちテレビを愛する人たちから、唾棄される。
だってそれは、貧乏根性極まりないから。
校長の朝礼話に、ずーっと「校長、校長、校長…」という
スピーカーがついているようなものだから。



2 中のランク

中の下:たとえ話

うまいこと言う話は、なにかの例え話になっている。
僕らがなるべくなら見たくない、売らんかなの商品がでずっぱりでないからいい。
僕らに関係ありそうな話からはじまって、ああ、と納得したら、
そこではじめて◯◯も同じです、と言われれば、なるほどね、となる。
それは、その例え話で記憶に残る。
商品名や企業名は、CMを数回見た程度では記憶に残らない、
という冷徹な事実を、関係者は知るべきだ。
おっさんおばはんが、人の名前をすぐに覚え、
一生覚えるか。しょっちゅう会ってても、名前なんて覚えないものだ。
だから例え話で記憶に残すのだ。
誠実な広告とは、少なくともこのレベルが必要である。


中の中:なんか面白いことをやるが、商品に落ちてない

お話のラストが、商品に落ちてる落ちてないは、俺たちには関係ない。
テレビは、面白いか面白くないかだ。
面白くないのは、そもそも下のランクだ。
面白い(笑う以外でも、心を動かされたり、なんかよかったり)
なら、それは中のランクだ。
企業は得しなくても、見てる俺たちが得したら、それでテレビは成功だ。
こんな面白いことをするのは、◯◯だ、と覚えてもらえる。

「ダダーン、ボヨヨンボヨヨン」やエリマキトカゲを、
僕らは一生忘れない。
そして企業もそれを忘れないなら、僕らは一生シンパシーを感じる。
(多分、担当が変わって忘れてるというのが現実だろうけど)

インパクト狙い、というのは最近なくなったなあ。
バブルの頃は、目で見る極楽のような、ふんだんに金をかけたCMが、
娯楽として見れたものだが。
(15年ぐらい前の「週刊宝島」でベトナムの森に巨大な脳が浮いていて、
それがナパームで一気に爆発する、という奴が好きだった。
バブル期のJALの、米米の「浪慢飛行」も好きだった
更に昔の、サントリーロオヤルのランボーの詩も、好きだった。
僕はいまだに、この商品はこれらのせいで、嫌いになれない)


中の上:面白く、商品に落ちている

映像やストーリーが面白く、なおかつ商品にもストンと落ちているもの。
爆笑もの(一時期オモシロCMと呼ばれた)、
頭のいい話のもの、感動もの、なんかいい感じのもの、
歌と踊りなど、テレビ映像の持つポテンシャル
(テレビから流れてくるもので面白いものを使う)を
きちんと使い、楽しませたうえで、
なるほど◯◯のCMだったのか、うまいね、
と記憶にも感情にも残るタイプのものである。


3 上のランク

上ランクは、中の上のなかで、抜きん出てできのよいものが上がれる世界だ。
流行する、世の中を変える、人々の考え方すら変える、
というみっつのスケールで見てみたい。

上の下: 流行する

かつてCMから流行語大賞が連発していた時代があった。
世の中の流行を、CMが発信していたのだ。
これはある程度の予算(製作費と、媒体費つまり何回流れるか)
に比例する問題でもあるから、これが物理的最低条件である。

ストーリーとオチ、映像、役者や芝居、音楽、世界観の
どれかが突出して出来がよいだけでなく、
どれも水準以上によくなければならない。
ちなみに、つまらないものは何回流しても流行など生まない。

手前味噌だが、クレラップのシリーズは、このランクだったと思う。
(僕の担当は「夕焼け」編までだったので、その範囲の話)
僕の大好きな、ファンタの◯◯先生シリーズもだ。


上の中: 世の中を変える

世の中を変える。ブーム以上に、その商品の周辺業界の空気まで変えてしまうもの。
サッポロ黒ラベルの温泉卓球シリーズ、
サントリーボスの「tell meガツン」のシリーズ、
フジフイルムデーモン小暮の「お正月をうつそう」シリーズなどだ。
佐藤雅彦の一連の連呼もの歌シリーズ(コイケヤ系、
バザールでござーる、団子三兄弟など)も。


上の上: 価値観まで変える

ブームになったうえ、恒久的に人の価値観すら変えたもの。
JRクリスマスエクスプレス、
JRAキムタクの競馬シリーズ、
サントリーオールド「恋は遠い日の花火ではない」シリーズなどだ。




俯瞰してみて言えることは、
たかが企業の言いたいことなんて、世の中の大きな流れに比べれば、
ちっぽけなものでしかないという冷静な事実だ。
どんなに素晴らしい商品だろうが、
どんなに素晴らしい企業理念だろうが、
どんなに意味なくお金をかけようが
(たとえばドバイと飛行機を写している某クリニック)、
それは、世の中から見れば、見向きもされないちっぽけなことなのだ。
それを世の中のブームにし、人々の価値観すら変えるには、
我々視聴者が、何を面白いと思っているか、ということの方が優先なのだ。

昔の企画会議は、ずっとこの喧嘩をしていた。
次の流行は何か、何をしたら面白いか。
今の企画会議は、企業の主張をどう尺一杯におさめるかしかしていない。
今のCMが、ちっぽけになって当然である。


これは、CMという映像業界の現状である。
翻って、脚本という世界を考えよう。

あなたのテーマや主張は、企業の主張と対応する。
世の中から見れば、いかに素晴らしかろうが、聞かなくてもよい、
ちっぽけなものである。
それよりも飛びつくものがある。それは、今の時代の何がフロンティアなのかで変わる。
今あるものからフロンティアは生まれない。
フロンティアは、今ない所から生まれる。

次に何をすれば流行るか?で、脚本を考えているか。
テーマの主張をしても、それは下のランクである。
流行るものとテーマは、上のランクでは無意識に一致する。
一致するように、コントロールされている。
中のランクでは、大小バラバラだ。
あなたのテーマと流行りそうかという関係は、
どのランクだろうか。
流行りの目利きをするプロデューサーと、仕事をしているか。
「次に何が来る」かをチェックしているか。
俯瞰して、世の中と主張について、考えてみてほしい。
posted by おおおかとしひこ at 15:50| Comment(1) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
関東以北でダジャレが文化のソースを出すべき
そのせいでこの記事はダメなCM以下
Posted by あ at 2017年09月19日 20:37
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック