何年ぶりかに帰省したとき、
知らない建物に変わっていて、
ここも知らない、あそこは◯◯だったはずだ、
と思う感情。
悲しい、まではいかず、違和感だけが残る。
記憶ではこの角に◯◯があって、それはずっとあるものだと思っていて、
それがなくなって20年近く立つのに、俺だけが知らない。
浜村淳が死んだのだって、まだ違和感がある。
俺のいない大阪では、まだあの故郷を出た日々が続いてる筈なのに。
故郷の町では、次々に俺の知る所から日々遠ざかっている。
年寄りは、こういう気持ちなのかも。
自分の知ってる町が、そこにない感覚。
年寄りが神社仏閣にテンションがあがるのも、それは知ってる、という感覚ではないか。
この感情に名前がついたら、
何かのネタになるだろう。
よい創作とは、皆が薄々気づいてはいるが、
まだ具体的な形になっていないものを、形にすることだからだ。
とりあえず、故郷が歯抜けになっている感覚、とでも言ってみる。
僕は東京に出てきて10年以上帰らなかった親不孝ものなので、
久しぶりに帰ると、愕然とするのである。
久しぶりに会った先輩やらが、ちょっと老けているのは、
まあ人間だからな、と納得はいく。
町が変わっている名前のない感情に、僕は耐えられなくなる。
2014年01月03日
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浜村淳さんとは「ありがとう浜村淳です」の浜村淳さんでしょうか?
でしたら今もご健在ですよ!