映画とは、非常事態のことである。
映画とは、緊急事態のことである。
映画とは、なんとかしなければならない事態のことである。
映画とは、そのような「特別な状況」での冒険のことを言う。
その世界を、物語論では、スペシャルワールドと言う。
宇宙人やドラゴンが侵略してきた、
妖怪、幽霊、異形の怪物、悪い魔法使いが現れた、
などの「架空の」ものが出てくる、「物語ならではの世界」では、
スペシャルワールドが分かりやすい。
平穏な日常に異物が現れる。
非常事態とはその危険なる異物の除去であり、
その戦闘期間がスペシャルワールドである。
日常にいた人々は団結して闘う。
その結果、ついにその異物は倒され、平穏な日常に戻る。
日常→スペシャルワールド→日常という構成だ。
ハリウッドのベースになる三幕構成理論では、
ACT 1の冒頭から8分ないし15分までが日常、
ACT 3のクライマックス後のワンエピソードが日常であり、
のこり全ては非常事態であり、スペシャルワールドのことについてである。
スペシャルワールドという絵がわかりやすいから、
「異世界もの」「旅もの」「異常事態(戦争、緊急避難、全戸閉鎖など)もの」
は人気が衰えることがない。
スペシャルワールドは、絵が全く日常と変貌する。
だから映画向きだ。(正確にいうと、大作映画向きだ)
このタイプの分かりやすいのは、
命をかけるアクションが、直接的(絵で見せられる)であることだ。
人は、怪物を殺す為に命をかける。そのために村が協力する。
犠牲をともなうこともある。分裂や団結がある。
これは、人類の根源的に持つ物語(のひとつ)である。
だからこれこそが物語の原型である、と思う。
しかし、「架空」までいく必要は、実はない。
隣村から攻めてきた、蛮族が攻めてきた、気違い宗教集団が現れた、
独裁国家が戦争を仕掛けてきた。
これらはすべて、宇宙人やドラゴンを倒す話と根本的に同じである。
スペシャルワールドは、それらとの闘いである。
「架空」の生物はそこに必要なくなる。
ある日母の秘密を知ってしまった、父の様子がおかしい、
などの日常を舞台とした話でも、
妖怪や魔法使いと同じタイプの物語を書くことも可能だ。
「母には鬼が住んでいる」というせりふを、日常の文脈で使うことを考えればよい。
母は、比喩的に鬼となる。
ということは、架空の鬼退治ものと同じ話の構造(スペシャルワールド)になるということだ。
架空のものだけが物語の世界ではない。
今我々が住む日常(現代でも、過去の時代でも)をベースにした物語のほうが、
映画では多い。(大規模な予算の問題である)
しかし、その方法論(緊急事態とスペシャルワールド)は、まったく同じなのだ。
鬼を、妖怪を、宇宙人やドラゴンを、悪い魔法使いや幽霊を、
日常の文脈に探せばよいのである。
僕はもともと少年漫画家を目指していたからか、
こういう見方をすることのほうが多い。
「架空の」ものを使う物語では、たとえば妖怪とすると、
妖怪は、異生物や怪物なのではなく、「人間の醜い部分の象徴」であったりする。
たとえば「怠惰」であったとしよう。
この妖怪が村を襲うというのは、人々の怠惰がよろしくないことの、
物語的な変換である。
そのスペシャルワールドを通じて、人は「怠惰」ということがどういうことか、
学び、それを倒すすべを発明するのである。
そしてその妖怪=怠惰が倒されれば、二度と怠惰にさいなまれることはないのだ(成長)。
つまり、ファンタジーであろうがSFであろうが、すべては、
「人間のなにか」を描くために、これらの架空のものは存在するのである。
ドラえもんはSF
(正確には、「すこし不思議」:藤子独自の、日常ベースにSFの異物が入ったジャンル)
であるが、
人間の怠惰や慢心や弱い心の象徴が、「架空の」秘密道具としてあらわれる。
それを使うのび太は、毎回自業自得に陥る、という物語である。
すなわち「ドラえもん」という物語は、
「秘密道具」という「人間の弱い心の象徴」という異物の、
スペシャルワールドでの冒険なのである。
(そして毎回バッドエンドである。弱い心を克服できないことで酷い目にあう)
これらの「架空のもの」を使う物語のほうが
人間の何かをこのように象徴できるため、
日常をベースとした物語より、より戯画化して物語の構造がつくられる。
すべてのSF文学はそうである。
微妙にただ科学の思考実験をしたかっただけ、というのもあるけど、
ほとんどの名作は、人間の何かを描くためにSFという道具を使っただけだ。
ファンタジーや怪奇譚なども、文学の域にいたるためには、そこまでが絶対条件だ。
ところが、ドラゴンや魔法やワープや気や超能力や宇宙人や恐竜や妖怪が、
ビジュアルとしておもしろすぎるので、
昨今のCG全盛の映画は、そのアトラクションに堕してしまっている。
その存在に、意味がない。
この場合の意味とは、人間の何かを描くための道具、という意味である。
たとえば傑作「アイアンジャイアント」における巨大ロボットと少年の話は、
捨て犬と少年の話の戯画化である。
捨て犬を巨大ロボットに置き換えることで、
ものすごく古くて新しい物語ができたのである。
これに感動しない元少年はいない。
(にもかかわらずあまり知られていないのが口惜しい)
一方、このような「架空の」ものが出ない、
リアリスティックな世界での映画を、リアル系の物語ということにしよう。
リアル系の物語といえども、妖怪やドラゴンにあたるものがないと、
それはただのドキュメントになる。
「人間の何を象徴して描くのか」がないと、それはただの日常の模写になる。
物語とは、強調と省略である。
ただの模写は必要ない。
象徴にこめ、それを操作することで、テーマの行く末を描くのである。
(逆によくできたドキュメントは、
日常の中から妖怪やドラゴンに相当するものを探してくる。
「マン・オン・ロープ」という、きちがい綱渡り男(とチーム)の
傑作ドキュメント映画では、文字通り「ロープ」こそが象徴でありテーマである。
あえて言葉にするなら、無謀で無邪気なロマン、ともいうべきか。
日常の模写だけでなく、そこに物語性をはらんでくるのである)
だから、リアル系の物語で成功するのは、
何かの象徴化がうまくいったときである。「イコン化」といってもいい。
「母には鬼が住んでいました」は比喩表現でしかないので、まだイコンには足りない。
母が鬼夜叉の面をかぶってはじめてイコンになる。
(さすがにこの例は昭和くさすぎるけど)
ドラマ「半沢」がリアル系の物語のふりをしながらも、受けたのは、
戯画化された、悪人とそれを成敗する水戸黄門というわかりやすい「物語」を、
視聴者がそこに見たからである。
こう考えれば、
「架空の」ものを使った物語も、リアル系の物語も、
異物とスペシャルワールドという構造は、まったく同じなのである。
あとは、ディテールが違うだけだ。
書き手が、
人間の何かを象徴させる「架空」を発明するか、
「架空の世界でいう○○」を人間社会の中から発見するか、
どちら向きかでしかない。
(にも関わらず、プロデューサーたちは、
以前成功した物語と「同じジャンル」を書くことを望むのだ。
それは、この原理を知らないからだと、思うことにした。
「同じジャンル」ばかり書かせるから、脚本家はすぐ消耗してだめになり、
ならなかったとしても、そのジャンルから出られなくなる。
そうやって使い果たしてきた不毛が、現在の日本映画界の空洞化でもある)
ドラゴンが出ようが妖怪が出ようが、SFになろうが、
現実がベースだろうが裏社会のことだろうが、医療業界だろうが時代劇だろうが、
実は物語というのは、まったく同じ構造なのだ。
それはすなわち、
異物(人間の何かの象徴だということは、終わって俯瞰したときにしかわからない)
と、スペシャルワールドという緊急事態のことなのである。
2014年01月05日
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