詩的であるとはどういうことかを言葉にしようとしていたら、
「現実から遊離させうること」という仮説にたどり着いた。
現実の小さなことにかかわずらっている心を、
詩的なものは、そこから遊離させる力がある。
今日中に出さなくてはならないエクセルの報告書のことから、
宇宙や星や人の運命のことを考えさせてくれる力だ。
詩的なことに、大自然や季節や星のことが多いのは偶然ではない。
それらが現代人にとって、今の現実の生活から遠いことであるから、
意味を持つ。
星や海原や風の運行が現実の生活に直結する人、たとえば漁師にとっては、
その題材は詩的ではないだろう。
彼らにとっては、逆に山の生活のようなことが、現実から遊離させうることかも知れない。
我々は短いスパンでしか生きられないから、
悠久の時の話は、それだけで詩的である。
(「はじめ人間ギャートルズ」のエンディング、
まだ人類が生まれる以前の星の、「なんにもない大地に、ただ風が吹いてた」
という最後のフレーズが僕は詩だと思う)
現実の生活に訪れる、奇跡のような詩的な瞬間とは、
たとえば好きな女の子の髪が、逆光でふわりとした瞬間などだ。
この瞬間、我々の心は、永遠の一瞬、現実から遊離する。
詩的な遊離は、恍惚を伴う。
それは、美なるものに触れる瞬間である。
美なるものとは、永遠に属し、我々の短いスパンの命とは、真逆の存在だ。
美しいもの、永遠なるもの、現実から我々の心を遊離させうるもの。
それは具体的な現象でもいいし、
何かの解釈でもいい。
谷川俊太郎の「朝のリレー」は、
地球を朝が一周していくという「新しい概念」を示した。
しかも、「カムチャッカの若者は」などの詩的なことばでだ。
異国の言葉が詩的に響くのは、我々の現実にはない言葉だからだ。
外国映画の半分ぐらいは、実は言葉の響きや見たこともない風景という、
エキゾチズムという詩が、魅力を埋めている可能性がある。
いまだに、「カサブランカ」や「ティファニーで朝食を」という映画は、
タイトルだけで人をひきつける。
僕の好きな詩的な映画に「ビフォー・サンライズ」があるが、
これだって東京大阪間の新幹線の話で、名古屋で途中下車、
という「現実的な」話になったとしたら、なんにも面白くない。
主演は向井理と北川景子だとしよう。
やっぱり面白くなさそうだ。現実的すぎて、面白くない。
面白くない、には、現実から遊離出来ない、という意味が入る。
(逆に、アメリカ人たちは、この遊離感覚を持たずに
ハリウッド映画を見ているのだろうか。
詳しい人、おしえてください。
逆に、東洋的なものに、彼らはエキゾチズムや遊離感覚を味わう、ということは言えそうだ。
ニンジャ、カンフーへの異常な憧れ、日本を舞台にした外人の○○な話、
スターウォーズep1でのアミダラ姫の衣装とか。あれは花魁=売女の格好なのだが、
そういう文脈ではない、エキゾチズムそのもののほうが重要なのだろう)
どなたかの映画批評ブログで、「観光要素」というものを採点基準に
入れているものがあった。
エキゾチズム、というものを日本語的に表現しているのだなと思った。
古典的名作、「ローマの休日」は、
ローマの風景、王室のこと、オードリー・ヘップバーン、
全てが遊離的な、詩である。
しかし、ただ我々の現実から遠いだけでは詩にならない。
遠い星の異星人の、見たこともない理論の方程式は、
恐らく詩にならない。(ある種の数学者や科学者にとっては詩になるかも)
我々の現実に即したこまごまとした所から悠久へと、
「解き放つ過程」が、おそらく詩には求められる。
「朝のリレー」に話をもどせば、
それは朝が一周していくという概念が、我々の現実の点である朝を、
線に、球にしてゆく考え方に広げてゆく「過程」で、
我々は現実から、うまく遊離してゆく。
よい詩人とは、このように、「誰からも」うまく遊離をつくる人、のことだと思う。
映画は、物語という娯楽でもあるが、
同時に詩的である芸術でもあらねばならない。
スペシャルワールドという異物の世界が、詩的であるべきなのは、
論をまたない。
そうでなければ、なぜ人は映画を見るのか。
詩的である必要は、すなわち人々が現実から遊離したい、ということである。
現実の理屈と地続きなだけの映画を、人は見ない。
(17:30までにエクセルの資料を提出できるのか?に人は興味ない)
ただ夢想的な世界だけの映画も、人は見ない。
(ただのファンタジーや怪物さえ出てればよし、というB級もあるけど)
現実から離脱、遊離して、詩的な世界へ誘導することが映画なのだ。
だからリアリティーの構築と、大嘘の、両方が必要なのだ。
詩人の、ただ詩的なところを、いくら真似しても詩的なことの勉強にはならない。
どうやってそこに至らせるか、という剥離のさせ方を、勉強するべきだ。
先日去年のベスト映画の話になり、
「レ・ミゼラブル」が順当かなと僕は推したのだが、
なんで歌うたうねん、という、
日本人独特のリアクションが当然のようにあり、
それは詩的だからだ、と答えようと思ったが、そのときには言葉にならなかった。
台詞の一形式として、散文形ではなく、韻文形の台詞表現なのだ、
という考え方は、多くの人には出来ないのだろうか。
(言文一致運動の成果か)
日本には、講談調のような、五七調の言葉づかいぐらいしか、韻文の台詞はないのかもだ。
(逆に、五七調の台詞先行でに曲をのせれば、日本語でもミュージカルが
成立すると、いまだに思うのだが)
カメラマンで最も詩に近いと僕が思う人は、故・篠田昇氏だ。
助監督時代何度かお世話になったが、ついに仕事をすることは叶わなかった。
先日の仕事で、コンビだったライトマン、
中村さんと偶然仕事をすることが出来た。
今度オンエアするそのCMは、映像の詩の神様が、すこしおりてきている気がする。
大塚家具「受け継ぐ」編、今週末からです。
我々の書く物語は、
娯楽でもあり、刺激でもあり、技術でもあり、
人間の生身を描くものでもあり、
詩でもあらねばならない。
2014年01月07日
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