2014年01月07日

詩的である、とはこういうことかも

詩的であるとはどういうことかを言葉にしようとしていたら、
「現実から遊離させうること」という仮説にたどり着いた。

現実の小さなことにかかわずらっている心を、
詩的なものは、そこから遊離させる力がある。

今日中に出さなくてはならないエクセルの報告書のことから、
宇宙や星や人の運命のことを考えさせてくれる力だ。


詩的なことに、大自然や季節や星のことが多いのは偶然ではない。
それらが現代人にとって、今の現実の生活から遠いことであるから、
意味を持つ。
星や海原や風の運行が現実の生活に直結する人、たとえば漁師にとっては、
その題材は詩的ではないだろう。
彼らにとっては、逆に山の生活のようなことが、現実から遊離させうることかも知れない。

我々は短いスパンでしか生きられないから、
悠久の時の話は、それだけで詩的である。
(「はじめ人間ギャートルズ」のエンディング、
まだ人類が生まれる以前の星の、「なんにもない大地に、ただ風が吹いてた」
という最後のフレーズが僕は詩だと思う)

現実の生活に訪れる、奇跡のような詩的な瞬間とは、
たとえば好きな女の子の髪が、逆光でふわりとした瞬間などだ。
この瞬間、我々の心は、永遠の一瞬、現実から遊離する。


詩的な遊離は、恍惚を伴う。
それは、美なるものに触れる瞬間である。
美なるものとは、永遠に属し、我々の短いスパンの命とは、真逆の存在だ。

美しいもの、永遠なるもの、現実から我々の心を遊離させうるもの。
それは具体的な現象でもいいし、
何かの解釈でもいい。

谷川俊太郎の「朝のリレー」は、
地球を朝が一周していくという「新しい概念」を示した。
しかも、「カムチャッカの若者は」などの詩的なことばでだ。

異国の言葉が詩的に響くのは、我々の現実にはない言葉だからだ。
外国映画の半分ぐらいは、実は言葉の響きや見たこともない風景という、
エキゾチズムという詩が、魅力を埋めている可能性がある。
いまだに、「カサブランカ」や「ティファニーで朝食を」という映画は、
タイトルだけで人をひきつける。

僕の好きな詩的な映画に「ビフォー・サンライズ」があるが、
これだって東京大阪間の新幹線の話で、名古屋で途中下車、
という「現実的な」話になったとしたら、なんにも面白くない。
主演は向井理と北川景子だとしよう。
やっぱり面白くなさそうだ。現実的すぎて、面白くない。
面白くない、には、現実から遊離出来ない、という意味が入る。
(逆に、アメリカ人たちは、この遊離感覚を持たずに
ハリウッド映画を見ているのだろうか。
詳しい人、おしえてください。
逆に、東洋的なものに、彼らはエキゾチズムや遊離感覚を味わう、ということは言えそうだ。
ニンジャ、カンフーへの異常な憧れ、日本を舞台にした外人の○○な話、
スターウォーズep1でのアミダラ姫の衣装とか。あれは花魁=売女の格好なのだが、
そういう文脈ではない、エキゾチズムそのもののほうが重要なのだろう)

どなたかの映画批評ブログで、「観光要素」というものを採点基準に
入れているものがあった。
エキゾチズム、というものを日本語的に表現しているのだなと思った。
古典的名作、「ローマの休日」は、
ローマの風景、王室のこと、オードリー・ヘップバーン、
全てが遊離的な、詩である。


しかし、ただ我々の現実から遠いだけでは詩にならない。
遠い星の異星人の、見たこともない理論の方程式は、
恐らく詩にならない。(ある種の数学者や科学者にとっては詩になるかも)
我々の現実に即したこまごまとした所から悠久へと、
「解き放つ過程」が、おそらく詩には求められる。

「朝のリレー」に話をもどせば、
それは朝が一周していくという概念が、我々の現実の点である朝を、
線に、球にしてゆく考え方に広げてゆく「過程」で、
我々は現実から、うまく遊離してゆく。

よい詩人とは、このように、「誰からも」うまく遊離をつくる人、のことだと思う。


映画は、物語という娯楽でもあるが、
同時に詩的である芸術でもあらねばならない。
スペシャルワールドという異物の世界が、詩的であるべきなのは、
論をまたない。
そうでなければ、なぜ人は映画を見るのか。
詩的である必要は、すなわち人々が現実から遊離したい、ということである。

現実の理屈と地続きなだけの映画を、人は見ない。
(17:30までにエクセルの資料を提出できるのか?に人は興味ない)
ただ夢想的な世界だけの映画も、人は見ない。
(ただのファンタジーや怪物さえ出てればよし、というB級もあるけど)
現実から離脱、遊離して、詩的な世界へ誘導することが映画なのだ。
だからリアリティーの構築と、大嘘の、両方が必要なのだ。

詩人の、ただ詩的なところを、いくら真似しても詩的なことの勉強にはならない。
どうやってそこに至らせるか、という剥離のさせ方を、勉強するべきだ。


先日去年のベスト映画の話になり、
「レ・ミゼラブル」が順当かなと僕は推したのだが、
なんで歌うたうねん、という、
日本人独特のリアクションが当然のようにあり、
それは詩的だからだ、と答えようと思ったが、そのときには言葉にならなかった。

台詞の一形式として、散文形ではなく、韻文形の台詞表現なのだ、
という考え方は、多くの人には出来ないのだろうか。
(言文一致運動の成果か)
日本には、講談調のような、五七調の言葉づかいぐらいしか、韻文の台詞はないのかもだ。
(逆に、五七調の台詞先行でに曲をのせれば、日本語でもミュージカルが
成立すると、いまだに思うのだが)


カメラマンで最も詩に近いと僕が思う人は、故・篠田昇氏だ。
助監督時代何度かお世話になったが、ついに仕事をすることは叶わなかった。
先日の仕事で、コンビだったライトマン、
中村さんと偶然仕事をすることが出来た。
今度オンエアするそのCMは、映像の詩の神様が、すこしおりてきている気がする。
大塚家具「受け継ぐ」編、今週末からです。



我々の書く物語は、
娯楽でもあり、刺激でもあり、技術でもあり、
人間の生身を描くものでもあり、
詩でもあらねばならない。
posted by おおおかとしひこ at 17:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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